藤原先生近況2008.10(1)

9月27日 盛岡の鈴木幸彦氏より連絡あり。先に10月の予定をうかがっていた事への返事。10月中旬から下旬にかけては和賀地区の和算の研究会や古文書講座で日程が詰まっている由であった。再会はまたの機会に延期した。鎌倉の目黒氏より会報受理のハガキあり。10月13日より四国方面への旅行に出て来るとの事。
10月3日 佐藤一伯氏より会報受理のハガキあり。とともに、今泉さんは現在、欧州日本学会で発表のために出張中との事である。
10月6日 仙台の村上雅孝氏より会報受理のハガキあり。併せて拙論考『文明東漸史』を興味深く読んだとの事。また、この文献は日本語の資料になるのでしょうかとあった。「日本語の資料」とは氏自身どんな範疇を指しておられるのかはっきりしないが…。日本語を外国語との対比的関係に置くものとすれば、この資料は江戸期の『蕃社遭厄小記』を受け継ぐ資料で日本語資料以外の何物でもないと考えられる。確か、氏の師佐藤喜代治先生にも長英『三兵タクチーキ』の用語研究があったと記憶するのだが…。福岡の杉本章子さんより封書あり。文中に「先日は拙作の御紹介して下さりうれしく思い信太郎シリーズお読み下さった奥様に美濃重信太郎をはじめ登場人物ともども厚く御礼致します。」とあった。彼女の作品は寺門静軒をモデルにした出世作『曲がり角の男』以来全作品が手元に保管されている。ただ、代表作『東京新大橋雨中図』以後展開した新しい作風の作品まで小生の諸事情で味読出来ていないのが…残念な所である。岡山の橋内武氏より封書あり。同封されて「撫川のうた」という抜き刷り(「桃山学院大学人間科学紀要」)が送られて未た。驚くなかれ、武先生の「庭斎」という雅号で詠まれた俳句、短歌、川柳、狂歌、詩群であった。 他者の趣味としての作品に小生は以前から批評は避けて来た。したがって、今回も批評はしないが、一読後感じた事は氏の専門の基本的な世界は言語研究にあったと理解する。そうした点から見るとやはり今回の作品群にも「言葉の妙」が発見されるようである。例えば、「ジジババを見つけてハシャグ…」とか「谷合いにオトトタケタカこだまして」「ケチケチと燕飛び交う」などの表現である。それにしても、何のこだわりもなく奔放な表現が羨ましい…。小生などいつもこだわりを背負ってカチカチな表現であったが…。
10月8日 塚本寿美子さんより会報受理のハガキあり。八戸の本田氏の近況を会報を通して知り、郷里八戸への思いが書かれている。郷土史家・正郡家種康氏の家と彼女母の実家 (酒屋)との縁である。現今の世情の中で小生のささやかな会報の世界がこうした形で機能を発揮している事にしみじみとした感慨を覚える。というのは、少し前に来た或る教え子さんの手紙に「先生の世界は時間的・継続的な世界ですね」とあった。私の自己自身には当然と受け止められる事柄もなかなかに…現今の現象的・即物的な思考の世界に慣れて来た人の目からは驚きなのであろう。
10月10日 広島の木山孝子さんより分厚い封書が来る。 手紙と数枚のコピーが同封されていた。木山さんは一時期、教鞭をとっておられたが、その時の教え子・尾形礼子さんとの交流の報告である。尾形さんの手紙から紹介しよう。
 1、昨年秋に我が町・広島の石内の小学校の戦前をモデルにした映画『花は散れども』が新藤兼人監督の手で撮影された。今年9月27日より公開された。
 2、自分もにこの映画のエキストラをつとめた。実は新藤監督は石内の出身で石内小学校の卒業生。今は生家はないのであるが、わが家とは親戚関係にある。
 3、この映画を機に二つの事があったという。一つは「新藤兼人生誕の地」という石碑が建ち、その除幕式が行われた事。もう一つは親しく新藤監督から戦前の良き時代の風物、人情、戦争という悲惨な体験などを聞き出した事であった。
 4、その他…(この点などに関する感想は述べない事にしたい。)
 木山さんの手紙より…映画を見てきました。映画の戦前の風景と現在を重ねて見ましたが…時代の大きな変化を鉄筋の橋には木の皮を被せたり、川底には砂を撒いたりでロケも大変だったようです。石内にはもう一人「水井建子」がおられまして、その歌を調べた所、「雪の進軍」「露営の夢」「月下の陣」「元寇」の作詞・作曲家で、この方の石碑も住んでおられた跡に建ってています。とあった。いつもながらの美しい字に引き込まれた。小生も映画を見たいと調べたら、立川で上映していた。新藤監督が広島の出身であり、広島の原爆被爆の関心が深く『原爆の子』を映画化された事も周智の通りである。そうした広島へのこだわりが作品を貫いている事もよく知っていた…。それにしても、「雪の進軍」他の作詞・作曲家が石内の出身とは…国民学校時代よく歌わされた軍歌である。映画という点で言えば、戦後も「雪の進軍」は挿入歌として歌われた。高倉健主演映画『八甲田山』(1977年)の中で、行軍歌として歌われた。青森歩兵第五連隊の寒地訓練・雪中行軍が八甲田山で行われたのは明治35年1月である。210人中199人が死亡した世界山岳遭難史上最大の惨事と言われた。永井建子は明治28年1月日清戦争下、司令官大山巌の第二軍は山東省栄城湾に上陸し虎山の寒村に司令部を置き、威海衛の背面攻撃に従事した。その指令部付きの音楽隊に従軍し、つぶさに戦争の場面をキャッチし表現したのがこの作品であった。1番から4番まで作詩はあり、漢語表現でやや堅い感じはするが、実に具体的な死を前にした生命の描写である。林秀彦著『日本の軍歌は芸術作品である』によれば、軍歌は日本ではじめてのフォークソング的なものであると言い、その歌の心は黒人聖歌に通ずるもので「厭世的気分を逆に生命の賛歌に転じさせる(もの)」だと言う。そう言われてみると、『八甲田山』に出て来る兵士や案内人の生態は生ま生ましい自然の生への表現があった。ただ、十数年前、小生は公務で北京市における大学院教育に従事する機会に恵まれた。その間にどうしても行きかった三東省への旅行を経験した。北京で日本の正月を過ぎて、余小麗さんの案内で天津方面に行った。当日は比較的に天候はよかったが、日本の北東北とは比較にならない寒さではあった。なぜ行きたっかのか…少年時代から中国と言えば、山東―威海衛(黄海を挟んで遼東半島と向かい合うこの地には清国の北洋艦隊の基地があった)の記憶にあったからである。今回の木山さんの手紙によって、永井建子を調べる機会を得た事に感謝したい。
10月17日 森脇宏氏より電話あり。27日に土悟氏を交え三人で新宿にてダベル会をもたないかとの事であった。久方ぶりの提案であった。
10月21日 朝日放送の「雑学王」の関係で南健一氏より電話がある。今回、番組で石川桜所を取り上げようと調べているとの事であった。特に、このところの大河ドラマ篤姫」のプームにも関係して奥医師となって将軍家成の病気に関わった時期の桜所の逸話への確認事項であった。つまり、それまでの病気の見立て(診断)の方法とちがって、科学的な確実さを求めた桜所の態度についてであった。この時期については鈴木文吾『桜所石川先生傳』以上の知識や記憶は小生にはない。ただ、桜所が長崎・蘭学をも体得し、江戸・種痘所創設にも松本順(終生の友人)とともに関係した優れた蘭方医であった事から当然考えられる逸話ではあろうが確証は定かでないと答えた。なお、上記の伝記は読んでないという事で必要箇所のコピーを送ってあげる事とした。
10月22日 昨日の石川桜所の件で南氏にコピーを送った。併せて、小生の旧論文冊子を参考までに同封した。なお、現在、小生は桜所ゆかりの人達の再調査をしていて、特に高松凌雲や彼とパリ万博に同行した山内六三郎を中心に上記論文の増補を進めている。意外な事実も出て来ているのであるが…原稿完成にはしばらく時間がかかろう。