羽賀祥二氏の「戦争・災害の死者の〈慰霊〉〈供養〉」を読み直す――國學院大學研究開発推進センター編『霊魂・慰霊・顕彰』


 國學院大學研究開発推進センター企画・編集『霊魂・慰霊・顕彰――死者への記憶装置』(錦正社、平成22年3月2日発行、A5判、352頁、本体3,400円)は、同センターの研究事業「招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究」の成果刊行物で、『慰霊と顕彰の間――近現代日本の戦死者観をめぐって』(錦正社、平成20年)に続いて2冊目の論集です。内容は前書と同様に研究事業の主体である「慰霊と追悼研究会」主催の2回のシンポジウム、「日本における霊魂観の変遷――「怨霊」と「英霊」をめぐって―」(平成20年2月16日)、「近代日本における慰霊・追悼・顕彰の〈場〉――戦死者と地域社会」(平成21年2月14日)の記録が中心になっています。
 阪本是丸センター長は序文で、副題の「死者への記憶装置」は小松和彦氏の「「たましい」という名の記憶装置」(同氏編『記憶する民俗社会』)より拝借したが、機械のような冷たい表現としてではなく、「現在の生者のみならず、まだ見ぬ子孫たちにとって、死者の「記憶」(想い)を呼び起こし、それを不断に確認し継承するための「備え」であり「仕組み」だと捉えるならば、聊かこの言葉から「血の通った」人々の営みも見えてくるのではないだろうか」と解説しています。
 シンポジウムは2回とも参加させていただき、平成21年の回については日本学ブログ(2009年2月15日)に簡単なコメントを残しています。本研究事業は「日本における戦死者慰霊の共同研究」を、人の霊魂を神として祀る古代から現代までの霊魂観や信仰の系譜を、神道を軸に検討・推進してきたものですが(中山郁「あとがき」)、今年3月の東日本大震災や9月の台風12号による甚大な被害を経験して、一昨年の羽賀祥二氏の報告「戦争・災害の死者の〈慰霊〉〈供養〉――一八九〇年代の東海地域を中心として」(本書214〜237頁)を再読させていただきたいと思いました。
 同報告は「はじめに――報告の課題」、「一 日清戦争戦病死者の〈慰霊〉について」、「二 一八九〇年代の災害の犠牲者の〈供養〉」、「三 流行病の死者への社会的対応――コレラを事例にして」、「四 〈慰霊〉〈供養〉の歴史的前提――近世飢饉の犠牲者の問題」、「五 日本近代社会と罹災協同体」、「結びに――遺骨をめぐる問題」の各節で構成されています。
 1890年代は日本近代社会史の大きな転換期であり、法制度や社会制度が整備される一方で近世的な治水体制などが崩壊し、新たな体制が構築されないことが大きな被害をもたらし、さらには幕末以来の伝染病の流行などに直面し、同時にはじめての本格的な対外戦争が地域社会の末端まで大きな影響をもたらした時期です。

 いわば一八九〇年代の日本社会は大量死の時代を迎えたと言ってもいい。日本社会はこうした事態に対して対応策を講じなければならなかった。戦時体制の構築、衛生・医療体制の確立、治水・治山への本格的取り組み、気象観測体制の整備などといった、国家や府県の政治的・法制的な対応のほかに、町村レベルで地域社会と住民はつぎつぎと起きてくる、人間の生命に深く関わる問題と損害に対して協同しながら、それを乗り越えていくための対策を取らなければならなかった。(215頁)

   
 こうした中で、第一に「死者や社会的損害に対する宗教的、社会伝承的な」対応、とくに戦死者の〈供養〉に仏教教団がどのように対応したのか、第二に自然災害や流行病の死者にどのような宗教的な対応が取られたのか、第三に流行病死者への宗教的救済について、第四に歴史的な前提として近世の飢饉の犠牲者への宗教的対応について、最後に宮城県日清戦争三陸地震津波・流行病死者を一緒に〈供養〉する供養塔の事例から、「罹災協同体による厄災への宗教的対応が日本近代の〈慰霊〉・〈供養〉の一つであったと考えられないだろうか」と考察しています。
 羽賀氏はこの中で、「厄災の犠牲者を受け止める地域性を罹災協同体と呼んでおきたい」とし、その起源として幕府が天明年間の飢饉・災害・火災などの犠牲者を全国的に〈供養〉する施餓鬼の執行を命じていること、天保期には弘前藩や仙台藩で戦役・災害・伝染病の犠牲者を合同供養していること、さらに幕末から明治には「罹災協同体」の維持・救済に貢献した功労者を〈顕彰〉する記念碑が仙台や木曽三川流域に建立されたことを明らかにしています。
 地域コミュニティにおける災害と〈供養〉〈慰霊〉〈顕彰〉の歴史を考える上で意義深い報告と思います。

霊魂・慰霊・顕彰―死者への記憶装置

霊魂・慰霊・顕彰―死者への記憶装置