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W. G. アストン『神道』について(15)


 第十章「崇拝〔Worship〕」では、「宗教的行為は、崇拝、宗教的制裁を有して居る限りについていふ道徳、儀式的清浄の三つを含む。」として、そのうちの「崇拝」ついて触れています。
 「崇拝」という語は「人に対する尊敬礼譲と神に対する崇拝とに適用」し、「神に対する崇拝は実は尊敬の別種ではなくて之を新方面に応用したものである。神を拝むほとんどすべての形式は、社会的尊敬の形式を借りたものである。」(『日本神道論』、二六一頁)と、対人の「社会的尊敬の形式」を「新方面に応用したもの」と捉えています。「崇拝は人から人へ、又一時代から他の時代へ宗教的思想感情を通はす方法」(二六三頁)であり、「神に対するのみならず人間仲間に対して行はれる」「重大な職分」があるとも述べています。
 「供物」の項ではハーバート・スペンサーの「供物をする起りは、死人の墓に飲食物を遺つた風習が起原である。かくて先祖の霊が神の資格に昇るにしたがつて、死人にとて遺つた飲食物はやがて供物となつたのである。」という意見が「其の宗教起原論と一致する」と言い、「供物の起りは、報本反始の心を以て分けて置いた通常の肉の一片にあつたのでろうと思ふ。」(二六六頁)と述べ、その目的を次のように捉えています。

 供物をする普通の目的は、神に対する感謝でる。祝詞に神の恩を報いるがため、将来の幸福を授けて貰はんがために供物をすることが甚だ多い。(祈年祭祝詞を見よ)又供物は謝罪のためにする時もある。儀式に記されてゐる罪ケガレを免かれるためにする時もある。故に供物のことを償物(アガモノ)ともいふのである。(二六七頁)

 このほか、「人身御供〔Human sacrifices〕は、古書に見えた国家的神道〔the State Shinto religion 〕の一部となつてゐない。併し、太古には実際これがあつたことが察しられる。」(二七五頁)という「国家的神道国家神道)」の用例も注目されます。