明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎――新国立競技場改築計画に寄せて

 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」であり、日本初、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に大正13年(1924)3月に建設されました。陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。敗戦から数年後、日本は「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出し、そのための国際的なアピールとして、昭和33年(1958)、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが国立競技場であり、建設は神宮競技場の取り壊しから始まり、着工は昭和32年(1957)1月、大会を2か月後に控えた昭和33年(1958)3月に完成しました。(以上、国立競技場ホームページより)

 以下では、国立競技場の前身である「明治神宮競技場」に関連する研究発表の要旨(佐藤一伯「明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎」、第59回神道宗教学会学術大会、平成17年12月4日)を掲載し、昨今の新国立競技場改築計画について考える参考に供したいと思います。
 この報告は、阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863~1941、明治神宮奉賛会副会長兼理事長)の『明治神宮奉賛会日記』(明治神宮所蔵、『明治神宮叢書』第17巻に翻刻)などを手がかりに、明治神宮内外苑の造成経緯(とくに後者)について、聖徳記念絵画館と競技場(現国立競技場)などの体育施設を比較しながら検討したものです。なお、より詳しい記述が、拙著(佐藤一伯『明治聖徳論の研究――明治神宮の神学』国書刊行会、平成22年、第8章「明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎」、257~294頁)に収録されています。

 外苑の形成―「聖徳記念」の中心と周縁-

 明治神宮外苑は民間団体の明治神宮奉賛会が、国民の献金を集めて、明治の「聖徳記念」ために造成したものであり、その中心は葬場殿址の前方に建造された聖徳記念絵画館でした。絵画館は明治天皇崩御直後に有識者の提言から生れたものです。神社に参拝して「「ありがたさに涙こぼれ」て、唯何となく勿体なく思ふ」という「抽象的の概念」だけでは「まだ物足らぬ」から、「御偉業を景仰」する「具体的策励」として記念館を建て、「何時までも含蓄に富める教訓を得」られるようにしたい(幣原坦談)という、絵画や銅像による西洋的・可視的な施設を望む意見が少なくありませんでした。

 他方、造営計画が進む中で、絵画館とともに「外苑の双璧」と並び称されるにいたったのが競技場でした。体育施設の建設は、乗馬で身心練磨に励まれた明治天皇の「叡慮」に沿うものとして受け止められました。内務省は竣工にあわせて体育大会(第1回明治神宮競技大会、大正13年10月30日~11月3日)の開催を計画しました。この大会は瞬く間に国内スポーツ競技の最高殿堂として定着します。以後、各運動競技団体からの新施設建設の陳情・請願が相次いだため、明治神宮奉賛会は計画の一部を変更し、野球場・相撲場・水泳場等の設置を決定するに至りました。

 第12回オリンピック東京大会への対応

 昭和12年6月23日、第12回オリンピツク東京大会組織委員会は内務省に「明治神宮外苑競技場改造願」を提出しました。競技場を第11回ベルリン大会の主会場に匹敵する「観覧者約十万人ヲ収容シ得ル如ク主トシテ西方ニ拡張」し、水泳場についても「大改造ヲ行ヒ観覧者約二万五千人ヲ収容シ得ル如ク」するというものでした。児玉九一神社局長は7月16日、徳川家達組織委員会長宛に、①拡張に要する経費は明治神宮に奉納すること、②経費は国庫補助金・市補助金より支出すること、③拡張するスタンドは仮設構造とし大会終了後撤去すること、④工事の設計施工は外苑管理署もしくは内務省が行うこと等を遵守することを条件に承認する見込みであると回答しました。しかし組織委員会は昭和13年4月、「主競技場ヲ駒沢ニ建設スルコトニ決定」しました。外苑が国民の浄財によって造成が完成したばかりで直ちに改造することは好ましくなく、改造計画案も外苑の風致を害するとして反対する向きがあること、東京市会の要求する10万人以上を収容する競技場は国家の威信・国民の熱意に鑑み当然の要望だが、外苑競技場改造に莫大な費用を投じても結果的には現状維持程度の収容力しか望めず、この際水泳競技場と一緒に駒沢に新設すべきだ、などの理由によるものでした。阪谷は「折角出来タルモノヲオリンピツクノ為ニ改造トナルコトヲ深ク残念ニ思ヒ」、外苑改造に反対の意向であったようです。昭和12年4月7日、児玉神社局長が阪谷に面会して「オリンピツクノ為競技場改造ハ頗ル心配」と相談した際「余モ同感」と語り、「着手前評議員会ニ付スルコト」を依頼し、かつ「断然断ハルモ可ナリ」と助言していることなどから、「外苑の風致」を理由に改造を懸念する勢力の有力者であったと思われます。

 阪谷芳郎明治神宮

 阪谷の日記をひもとくと、晩年まで明治神宮=「国体無言ノ教育」の場という持論を後継の人々に説き続けていたことが窺えます。彼の言動の中から、内外苑の「風致」は「明治聖徳」(雄大・質実・仁慈…)と「国体無言ノ教育」の重要な表象・生命であり、これを蔑ろにして「御聖徳ヲ憧仰」する道は虚偽である、という考えが浮かび上がってきます。
 こうした明治神宮論は、父・阪谷朗廬の思想との交流を度外視して語ることは出来ないと思われます。阪谷は父の教育界への功績について第一に「白鹿洞掲示説」を著して「日本人ハ忠孝ト云フコトヲ土台トシテ行カネバナラヌ」と主張したことで、「教育勅語」は朱子の「白鹿洞掲示ノ生レ代リタルモノトモ見ラレル」と述べています。第二に、「兵式体操」を奨励したこと、第三に教育普及のために「仮名混リ文ヲ主張シタ」ことを挙げています。特に『明治神宮奉賛会日記』の冒頭に「忠孝吾家之宝」と記しており、「忠孝」の道を父から受け継いだという自覚は大きかったと思われます。衰退が懸念される伝統文化へのまなざしと、時勢相応の解りやすい教育を配慮するバランス感覚は、阪谷芳郎の「国体無言ノ教育」の場としての明治神宮論にも受け継がれた面があったと思われます。

明治聖徳論の研究―明治神宮の神学

明治聖徳論の研究―明治神宮の神学