藤原暹著『江戸時代における「科学的自然観」の研究』(2)

 第一章では、長崎で唐船書物改の役にあった南部草寿の「其ノ天書ニ繋ル」(中村綃斎『天文考要』)との配慮により禁書令を免れ、天文学者をはじめ儒学者国学者、僧侶など江戸時代の知識人に広く読まれた天主教系天文学書『天経或問』(游子六著)の記述内容と受容過程について考察しています。
 『天経或問』前集(後集は中国でもあまり省みられず、日本でも読まれた形跡が不明という)には「天地之原」から「人転世」まで70項目が問答体で書かれています。 

 さてこの七十項目の中で大部分は天地の形体、運行、気象、地理現象を述べたいわゆる形体論の記述によって占められている。しかし、こうした記述の後半部分の終りに「占候」「四行五行」「星降生」「人転世」という人道に関する記述があるのである。……ところでそうした項目では、……天は「群物の祖とも考えられるが、人の吉凶禍福死生存亡には関係しないものである」と言い、また「星下リテ人トナル」という詩経の説に対しては、「実事アルニハアラズ。」と天の主宰性・造物性を排そうとしている。……では、造物作用は何によるかと言えば、「四行五行」という項目で、……造物作用は五行、四行(四元説)の中で特に水火二気(実は一つのもの)の自然作用でなされるものであるとしている。(16〜17頁)

 最後の「人転世」の項目では、天道は自然の運行、人道も自然の火気の作用であるとして、天の有する「神意」とか「命理」を排し、火気が散ずれば無となるという「一種の無神論的な虚無的な人生観」を生みだしており、書中の諸所に天体の運行について天主教的主宰神の説明をしながらも、「主宰神の存在を認め、天地の諸現象を統一的に把握したのではない」と、藤原先生は解説します。しかし「観測天文学が「自然」と「人道」を切り離したのに対して「自然」と「人道」を結びつけた『天経或問』の天文学を「人生論的天文学」と呼んでおきたい」と述べ、「西洋観測天文学受容に対する一つの反動的な形として行われたもの」と考察しています。
 中村綃斎『天文考要』、渋川春海『天文瓊統』など、『天経或問』の研究の初期には形而上的な面にあまり関心が及びませんでしたが、西川正休が享保15年(1730)に訓点本『天経或問』とあわせて出版した『天学名目鈔』では、「天地ノ形体ト天地ノ道理ヲ詳ニ」説いた「紅毛ノ天学」として形而上的な言説をも受容し始めます。以後源良弼(松永良弼)の『体道極曜俗解』(別名『天経或問要論』、享保20年〔1735〕)、西村遠里『天経補衍 天学指要』(安永5年〔1776〕序)、小里頼章『天学管窺鈔』(安永5年以降成立か)、京都八木蔵版『命理天学弁』(寛政元年〔1789〕)、片山松斎『蒼海一滴集遺稿』(文政7年〔1824〕)などで、『天経或問』の「天地ノ道理」説が優れていると認識され、受容されました。
 藤原先生はこのことを、章の結びで次のように捉えています。 

 それは一つには、すでに前節において述べた如く、朱子学徒の言う「天地の理」=大極の有する「天理」を明らめる事とは異り、天地自然の「物理」を究めるという事であった。この点、朱子学徒において「天理」に束縛された「自然」を解放し、自然認識の方法を一歩すすめることであったと言える。
 しかし又一方、『天経或問』の「天地の道理」が「自然」と「人道」をどこまでも結びつけて行くものであり、そこに自然の道理と物理とを自からの人道に比定し、感得して、結局自ら悟明するという観念的な方向に向わすことになったとも言える。こうした傾向を有する『天経或問』を受容することは、どこまでも「自然」を算理をもって解明していく西洋近代自然科学の受容に対しては相反する性格であったと考えられる。(32〜33頁)