藤原暹著『江戸時代における「科学的自然観」の研究』(3)

 第二章では、主に地動説を中心とした蘭学天文説の導入による「科学的自然観」の形成と性格について、和蘭通辞本木良永・志筑忠雄の両天文学説による二系列に分けて叙述しています。
 第一節は本木良永の訳書からの影響として司馬江漢と片山松斎を取り上げています。
 司馬江漢については、すでに村岡典嗣・海老沢有道・黒田源次ら先学が『和蘭天説』(寛政8年〔1796〕)の「水火二元論」という特異な自然観に注目し、それが『天経或問』と本木良永『太陽窮理了解新制天地二球用法記』(ジョージ・アダムスの蘭訳本『天文学基礎』の訳書)の引用によることも指摘されていました。 

 では、江漢は内容的に見て、一方の『天経或問』が天動説を、他方の本木良永訳『太陽窮理了解新制天地二球用法』が地動説を説く対照的な両書を如何に取捨選択して『和蘭天説』を著わしたのだろうか。(39頁)

 藤原先生は以下で両書の取捨選択状況を考察し、『天経或問』からは「四行五行」の項目に見える水火二気論を、本木良永の「西洋天文学の新説」からは、「その天文学が航海天文学として「国用の第一」であるという天学観」を受容したことを明らかにします。 

 さて、こうした異った目的を有する二つの天学観を江漢は受けつぎ『和蘭天説』を生み水火二元論を形成した。だから、彼の自然観には当然こうした二つの天学観の持つ二つの要素が共存しているのである。それは『天経或問』の有する「自然」と「人道」とを結合させ、その間の「然る所以の理」を究めようとする方向と、本木の書に見られる西洋天文説(航海天文学)の「自然」と「人間」を切り離していく方向との二重の相反する志向性を有するものであった。(47頁)

 司馬江漢には自然科学的「窮理学」と虚無的な「悟道」が共存し、後年に宗教的傾向を深めていったのもその二重の性格によるものであり、先学の言う晩年ではなく「早い時期から「実用主義」というものと「虚無主義」というものとの二つの要素があった」(注9)と補足しています。