十和田市立新渡戸記念館の存続を

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 報道(新渡戸記念館廃止解体へ、読売新聞ホームページ、6月6日)に拠ると、青森県十和田市の開拓の歴史を伝える資料約8千点を展示していた「市立新渡戸記念館」が、建物の耐震強度不足を理由に4月から休館している問題につき、小山田久市長は6月5日の定例記者会見で、記念館を廃止し、建物を解体すると発表しました。耐震診断結果に沿って廃館の方針で、記念館の廃止条例案と解体費用約2900万円を盛り込んだ補正予算案を12日開会の市議会定例会に提出、条例案が通れば6月末に廃館とし、今年度中に解体することになるとのことです。

 これに対して、保有資料を記念館で保管している新渡戸家側は「耐震性に問題はない」と廃館に反対しており、市を相手取って提訴することを検討しているとのことです。
 別の記事(新渡戸記念館解体契約「待って」、読売新聞ホームページ、6月12日)では、同館学芸員が11日に、市が建物の解体を決めた場合に解体工事契約などの締結防止を求める住民監査請求書を、市の監査委員事務局に提出。記念館は「十分な耐震性を持つ建物と推測される」「耐震性を確認して今後の措置を検討するのが本当の姿」などと主張し、解体工事契約の締結防止などを求めています。

 この問題を漏れ拝聴し、新渡戸稲造を尊敬し、その日本文化論や神道論について調査してきた小生は、たいへん驚き、新渡戸家資料の保存はもちろんのこと、現施設の保存維持に努めていただきたいと願ってやみません。記念館関係者はもちろん十和田市民また国内外の多くの方々が今回の事件に嘆き悲しみ、心を痛めているに相違ありません。
 新渡戸稲造は生涯に、日本人の感受性、生来の内なる善神の尊重、祖先崇拝などの素晴らしさについて、『武士道』などを通じて国内外に語り続けました。その背景には、旧南部藩士新渡戸家の神祇を尊ぶ環境や、明治天皇が明治9年・14年の東北巡幸にあたり祖父・新渡戸傳の三本木原開拓の遺業を嘉賞され、それが農学志向への転機となったことなどが挙げられます(以下、拙著『世界の中の神道』)。
 祖父新渡戸傳は明治4年に歿し、生前より墓域と定めていた旧南部領三本木(現青森県十和田市、市立新渡戸記念館敷地)の太素塚に神道式で葬られましたが、稲造は度々の外遊前後に墓参しました。カナダで客死する5カ月前の昭和8年5月には、昭和天皇への3度の進講の名誉に浴したことを太素塚の神域に奉告し、「もし他地で死亡の時は祖父傳翁のそばへ埋葬して呉れ」と言って持参のステッキで丸を画いたといいます(川合勇太郎『太素新渡戸傳翁』、新渡戸憲之『三本木原開拓誌考』など)。
 明治天皇の巡幸を契機とした農学への精励については、『農業本論』の「自序」に、「祖父の意思を継ぎ、皇恩の隆渥なるに報ひんとて、……余も亦始めて一身を農事に委せんとす」と述べ、その宿志を徳富蘇峰が『国民新聞』紙上で称賛しています(「農業本論を読む」)。明治38年4月12日にはメリー夫人とともに、明治天皇に拝謁して英文『武士道』を献上し、その際「稲造短才薄識、加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は 聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い奉らんことを」という「上英文武士道論書」を草しました(桜井鴎村訳『武士道』)。『農業本論』で「『地方学(ぢかたがく)』(Ruriology, Ruris 田舎、 Logos 学問)」すなわち地方の事象の顕微鏡的観察を提唱したのも、「回顧すれば明治維新、国是一変して、粋を英仏に汲み、華を米独に咀み、従来の制度を種々刷新して、或は村落の分合を行ひ、自治制を布けるが如き、因つて以て従来の田舎社会を全然壊敗し了らしめ、我が地方学の研究に一大錯雑を来すに至りぬ」との憂慮を抱いてのことでした(『農業本論』)。新渡戸の地方学の構想は明治43年より大正6年まで、小日向台町の自邸を会場に柳田国男・小田内通敏が幹事となって催された郷土会に受け継がれ、さらには柳田の民俗学、小田内の郷土地理学、小野武夫の農村経済史研究、牧口常三郎創価教育学へと発展しました(岡谷公二柳田国男の青春』)。
 こうした新渡戸稲造の足跡は、新渡戸稲造個人や新渡戸家、十和田市民などの血縁、地縁にとどまらず、小生のような東北人、また広く日本人、さらには日本文化に理解の深い世界の人々の心に生き続けており、新渡戸記念館が太素塚と同じ場所にあって資料保存や研究教育の拠点として活動してきたことに、大きな文化的意義があると思われます。すなわち、これまでの新渡戸記念館を中心とする文化的活動は、国内外の人々にとって偉大な財産であり、記念館の立地や施設そのものが歴史的文化的に高い価値を有していると考えられます。
 よって、今回の施設の廃館や解体という十和田市の方針は、これまで述べた歴史文化、ひいては観光資源を喪失してしまう大変残念な内容であり、一日本人として、東北人として受け入れられるものではありません。
 十和田市及び十和田市議会におかれましては、新渡戸記念館の保存維持の対策を再度ご検討下さいますよう衷心よりお願い申し上げます。

   平成27年6月13日

                     御嶽山御嶽神明社 宮司 佐藤一伯 

 

(写真は、十和田市立新渡戸記念館の入口、平成23年10月8日撮影。新渡戸稲造、父十次郎、祖父傳の墓地「太素塚」が隣接しています。)

 

追記 新渡戸記念館は有名な建築家・生田勉先生の作品の1つであり、収蔵資料、記念館施設、さらには景観いずれも貴重な文化遺産ではないかと思われますので、ぜひ大切にしていただきたいです。(平成27年6月14日)

 

追記 新渡戸記念館を6月末で廃止する条例案や解体事業費を盛り込んだ補正予算案が26日、十和田市議会6月定例会で可決されました。議会に声が届かず誠に残念ですが、国民の草の根運動として、廃館および建物取り壊しの撤回を求める署名活動に、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。(平成27年6月29日)

(署名用紙は以下の御嶽神明社ホームページからご利用下さい ※平成28年3月1日よりアドレス変更)

ontakesan.amebaownd.com

 

追記 8月5日より、新渡戸記念館をまもる会(save the towada)のインターネット署名Change Org が始まりました(http://chn.ge/1ORPthR)。

「未来の世代に遺したい日本の精神。新渡戸記念館を廃館・取り壊しにしないで!」 皆様、ご署名宜しくお願いいたします。(平成27年8月6日)

www.change.org

世界の中の神道 (錦正社叢書)

世界の中の神道 (錦正社叢書)

 

 

大島英介『遂げずばやまじ』が紹介する「一関尋常中学校落成式賀章」

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 大島英介氏(1917~2007)の遺稿である『遂げずばやまじ――日本の近代化に尽くした大槻三賢人』(岩手日報社、平成20年)を、資料の整理中に久しぶりに手にしました。この書物は平成18年1月9日より翌年12月31日まで、『岩手日報』紙上に103回連載した「日本近代化に尽くした大槻三賢人――玄沢・磐渓・文彦」をまとめたものです。日本で初めて近代的な国語辞書の内容を備えた『言海』の編纂者である大槻文彦を中心に、父磐渓、祖父玄沢ら大槻家の人々を歴史的に記述しています(大島晃一「あとがき」)。

 本書の中で、大槻文彦が明治31年(1898)10月の一関尋常中学校校舎落成・開校式にあたり、ふるさとの教育振興を願って書いた「賀章」のことが紹介されています(319~328頁)。

 この「賀章」の大半で、「彼の藤原三衡の盛なりしが如きは姑(しばら)く措く。」として、以下のような岩手県南地域の歴史人物を紹介し、生徒たちを励ましています。

謙徳公(一関藩主第八代田村邦行、幕末に藩政を作新)

建部清庵(一関藩医、『民間備荒録』を著して飢饉からの救済に尽力)

大槻玄沢(『蘭学階梯』を著し幕府洋書翻訳局「蛮書和解御用」を開く)

佐々木中沢(仙台医学校で蘭方医学を指導)

関良作(儒学者、一関藩の一千余人の門人を躬行実践に引率)

千葉雄七(名は胤秀、花泉和算家、『算法新書』を著し門人を教育)

阿部随波(通称小平治、鉱山経営者、河道改修・殖産に活躍)

大槻丈作(五串村に天狗橋を架し、赤子養育法を施行)

大槻民治(独力で仙台藩府学養賢堂を建設し学頭となり学問を興す)

影田良作(号は蘭山、仙台藩儒学者、養賢堂指南役として教育振興)

小野寺元適(玄週、のち丹元、仙台藩医学館学頭で魯西亜学の開祖)

柏原清左衛門(平泉出身、私財を棄て五串村に良田を開拓)

相原三益(気仙郡高田生まれ、平泉史研究家、赤荻で平泉三部書を著す)

芦東山(名は徳林、渋民出身、仙台藩儒学者、『無刑録』著す)

青柳文蔵(松川出身、仙台に青柳文庫の図書館、郷里に備荒倉を建てる)

高野長英(水沢出身、蘭学、医術を究め日本初の洋兵書を著す)

箕作省吾(水沢出身、蘭学に精通し万国地誌「坤輿図識」を記述)

箕作麟祥(明治の法学者、民法商法を起草して政府に尽くす)

志村五城・東蔵・篤治の兄弟三人(江刺郡羽黒堂出身、仙台藩儒)

金忠輔(石越出身、カムチャッカより渡米、カリフォルニア酋長となる)

 大槻文彦は「賀章」の結びに、「先(ま)ず呈するに、頌(しょう)を以てして、并(あわ)せて呈するに規(き)を以てす」と記しています。大島氏はこれを、在野の「処士」の立場で述べた格調高い文章であり、校舎落成と開校式の単なる祝辞ではなく、ふるさとの後輩たちへの戒の言葉であったと解説しています。

 この長文の「賀章」は、ブログ筆者が一関第一高等学校在学中の昭和50年代末から60年代には、校舎の1階に掲示されていたように記憶しています。しかしそれに注意をはらうこともせずに当時を過ごしました。

 いま改めて内容の一端を知り、大槻文彦が郷土の若者に、先人を凌駕するような人材となるようにとの強い期待と激励をこめていたことに感銘します。そして、私たちが地域づくりや人づくりに取り組む上で、こうした「科学(サイエンス)」を重んじた郷土の先人たちについて、温故知新の精神で理解を深め、私たちのアイデンティティを再確認することが大切ではないかと思います。

島薗進「天皇崇敬・慈恵・聖徳――明治後期の「救済」の実践と言説」

 島薗進先生より、玉稿「天皇崇敬・慈恵・聖徳――明治後期の「救済」の実践と言説」(36~47頁)が掲載となりました、歴史学研究会編『歴史学研究』第932号(特集「救済」をめぐる言説と実践――歴史の現場から考える(Ⅰ)、青木書店、2015年6月15日発行)をご恵与いただきました。誠に有難く感謝申し上げます。

 「はじめに――天皇崇敬と天皇制慈恵主義」、「Ⅰ 「天皇制慈恵主義」とその初期の形態」、「Ⅱ 明治初期から中期にかけて慈恵の言説の変容」、「Ⅲ 済生会と済生勅語とその反響」、「Ⅳ 明治聖徳論との関わり」の各節で構成されています。
 明治時代に「慈恵」の制度と言説がどのように展開し、天皇崇敬が促されたかについて、「聖徳」についての言説との関係にも注目して論じられ、たいへん勉強になります。
 「大震災と原発災害を経験して改めてきずなや社会の連帯が強調される今日において、人間の尊厳を維持すべき個人と社会の関係のあり方を歴史学の立場から改めて考えていく機会としたい」(歴史学研究会編集委員会「特集によせて」)という、編者の意図と照らすことにより、現在にも繋がるテーマであるように拝察されます。

 

歴史学研究 2015年 06 月号 [雑誌]

歴史学研究 2015年 06 月号 [雑誌]

 

 

岩手民俗の会『岩手の民俗』第11号

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 岩手民俗の会『岩手の民俗』第11号(平成27年3月31日)が発行となり、執筆者への送付分を本日受領しました。(追って、会員各位に送付されます)

 目次は次の通りです。

『岩手の民俗』第十一号発行に寄せて(岩手民俗の会代表 大石泰夫)

〔論文〕

消えた漆掻き道具(工藤紘一) 

民俗神道論に関する一考察――一関市・御嶽神明社一升餅の祝い(佐藤一伯)

分布図から読み取れること――青森県の「疫病おくり」と「虫送り」を例に(吉田満

南部流風流山車の伝承活動における課題(板垣裕仁

〔民俗の窓〕

映像と民俗と私(阿部武司)

虎舞の頭(大石泰夫)

花巻市石鳥谷町内の「餓死供養碑」について(大原皓二)

民俗芸能を教育に生かす取り組み――岩手県矢巾町「不動っ子の集い」(中嶋奈津子)

昭和四十二年(一九六七)のチャグチャグ馬コ(宮内貴久)

「とらや」から始める都市民俗研究(八木橋伸浩)

岩手民俗の会会則

彙報

編集後記

  大石代表が序文で述べていますように、昭和54年(1979)に発足した岩手民俗の会は、平成5年(1993)頃より活動が休止状態に入り、本誌の発行は平成4年8月31日に第10号を発行以降止まっていました。岩手県内外の研究者、愛好者、団体からの要望に応えて再スタートしたのが平成21年(2009)10月、そしてこの度、約23年ぶりに第11号が発行となりました。ここまでの運営委員をはじめ会員、とくに大石代表の献身的なご努力に深い謝意を表さずにはいられません。

 平成23年6月3日の記事(2011-06-03 - 日本学ブログ)にありますように、震災後に岩手民俗の会に入会以来、大石先生をはじめ会員の諸先生と交流する機会に恵まれ、また記念すべき再スタートの第11号に拙い文章を掲載していただき、心より感謝申し上げます。

 序文や編集後記に触れられていますように、岩手民俗の会は広く民俗学に興味のある人の会を目指しており、研究者だけではなく、多くの方々に民俗学の面白さを知っていただき、また専門家も未知の民俗の情報に触れ、研究が発展することを願っています。詳しく知りたい方、入会をご希望の方は、岩手民俗の会ホームページ(http://iwate-minzoku.jp/)をご覧下さい。

地域づくりの新しい課題と人材育成――地域の発想で“異次元の地方創生政策”を

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 月刊『地域づくり』第308号(地域活性化センター、平成27年2月1日発行)の「地域づくりの人材育成」特集に掲載された、岡﨑昌之氏(法政大学教授、地域経営論)の基調論文「地域づくりを担う新しい人材育成」を興味深く読みました。

 現在の地域社会の課題は、ハードなコミュニティ整備では解決できない身近な日常生活レベルで多発しているとし、その課題群を次のように2つの側面に分けて示しています。

【地域社会に蓄積する課題群】

 高齢化や人口減少などによるひずみがもたらした喫緊の課題群。

 高齢者の介護・生活支援、団塊世代の高齢化による大量の要支援者の出現、子育て支援などの福祉分野、産科・小児科の不足などの医療分野、いじめ・ひきこもりなどの教育問題、若者世代の雇用問題、農山村の鳥獣被害、ごみの不法投棄、里山保全などの環境問題、地域社会の安全性など。

 

【将来社会形成型課題群】

 将来の魅力ある地域社会を形成するために取り組むべき地域づくり課題群。

 地域間交流やツーリズムの対象や価値となる、歴史と文化を維持してきた日本の集落や地域の継承や保全。とくに農村漁村の自然景観、生活文化の技(スキル)、祭事等での郷土食、神楽や民謡、棚田、水田への水の管理、治山治水など。 

 岡﨑氏はさらに、後者の「将来社会形成型課題群」について、「このような生活の技は、地域がもつ重要な価値であり、環境教育、郷土教育の視点からも将来に継承されなければならない。……共有できる価値意識の創出、参加と協働をとおして、はじめて美しい町、豊かな暮らしが構築され、それに立脚した活力ある地域が形成できる。そこには新しい人材が集い、新産業創出の可能性もうまれる。」と述べています。

 その上で、地域課題解決のための人材として、自治体職員には地域課題に対応できる専門性やネットワーク、情報収集発信、現場に対応する臨床性が必要であり、住民もまた「日常から、地域に真摯に向き合い、住民として地域に責任を持つことが欠かせない。また自己主張だけでなく、地域と折り合いをなし、地域を相対的に見つめることのできる自律性を備えなければならない。」と指摘しています。

 本稿に一貫する、「地域の伝統や歴史に根付いた発想」すなわち「自らの集落や地域を十分把握することからしか地域課題の発掘はできない。」との提唱は、これからの地域づくりを考える上で示唆に富んでいます。

 なお、注で紹介している岡﨑昌之編『地域は消えない――コミュニティ再生の現場から』(日本経済評論社、2014年)所収の、同氏による第一章「まちづくり論・コミュニティ形成論の経緯」には、「過疎地域等における集落の状況に関する現状把握調査報告書」(総務省地域力創造グループ 過疎対策室、平成23年3月)がまとめた「集落の問題発生状況」が示されています。岡﨑氏が「将来社会形成型課題群」に分類する課題では、伝統的祭事の衰退、地域の伝統的生活文化の衰退、伝統芸能の衰退、農山村風景の荒廃などが深刻になりつつあることが窺われます。

 

月刊地域づくり 第308号 地域づくりを担う新しい人材育成

矢巾町民俗芸能調査報告会

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 矢巾町民俗芸能調査報告書刊行を記念しての報告会が平成27年3月8日(日)午後1時より、矢巾町文化会館(田園ホール)で開催されました。

 矢巾町伝統文化活性化実行委員会の松村正夫委員長が主催者挨拶の後、矢巾町伝統文化調査委員会の大石泰夫委員長(盛岡大学教授)が「矢巾町の民俗芸能総説」を報告。次いで「徳田地区の民俗芸能」について佐藤一伯調査委員(御嶽山御嶽神明社宮司)、「煙山地区の民俗芸能」について小西治子調査委員(もりおか歴史文化館学芸員)・安田隼人調査委員(秋田県小坂町教育委員会)が報告しました。休憩をはさんで「白沢神楽」の上演があり、「不動地区の民俗芸能」について中嶋奈津子調査委員(盛岡大学非常勤講師)・松前もゆる調査委員(盛岡大学准教授)が報告の後、会場からの質問に委員が答える時間が設けられ、伝承の大切さについて熱心な議論が交わされました。

 このような報告会の開催は矢巾町で初めての試みとのことでした。ご指導を頂戴した大石委員長はじめ調査委員の皆様、教育委員会の皆様、伝承団体の皆様に改めて感謝申し上げます。

 なお、今回刊行された『矢巾町文化財調査報告書第40集 矢巾町の民俗芸能――矢巾町民俗芸能調査報告書』(A4判132頁、1700円)、『矢巾町民俗芸能調査報告書 普及版 やはばの民俗芸能』(A5判32頁、800円)は、矢巾町歴史民俗資料館(月曜休館。ただし祝祭日の場合はその翌日)にて販売されています。

 

『明治神宮以前・以後――近代神社をめぐる環境形成の構造転換』

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 藤田大誠、青井哲人、畔上直樹、今泉宜子編『明治神宮以前・以後――近代神社をめぐる環境形成の構造転換』(鹿島出版会、2015年2月20日発行)を出版社様よりお贈りいただきました。誠に有難うございます。
 近代日本の都市や地域社会における、神社に求められた機能や役割について、大正期の明治神宮造営をメルクマールと捉え、神社境内の環境形成におけるダイナミックな構造転換の研究を試みた論文集で、目次は次の通りです。

 序論 近代神社の造営をめぐる人々とその学知――本書の目的と概要(藤田大誠)

 

第Ⅰ部 神社造営をめぐる環境形成の構造転換

 第1章 神社における「近代建築」の獲得――表象と機能、国民と帝国をめぐって(青井哲人

 第2章 戦前日本における「鎮守の森」論(畔上直樹)

 第3章 帝都東京における「外苑」の創出――宮城・明治神宮・靖國神社における新たな「公共空間」の形成(藤田大誠)

 

第Ⅱ部 画期としての明治神宮造営

 第4章 明治神宮が〈神社〉であることの意義――その国家性と公共性をめぐって(菅 浩二)

 第5章 近代天皇像と明治神宮――明治聖徳論を手がかりに(佐藤一伯)

 第6章 外苑聖徳記念絵画館にせめぎあう「史実」と「写実」――北海道行幸絵画の成立をめぐって(今泉宜子)

 第7章 森林美学と明治神宮の林苑計画――近代日本における林学の一潮流(上田裕文)

 第8章 明治神宮外苑前史における空間構造の変遷――軍事儀礼・日本大博覧会構想・明治天皇御大喪儀(長谷川香)

 第9章 明治神宮林苑から伊勢志摩国立公園へ――造園家における明治神宮造営局の経験と意味(水内佑輔)

 

第Ⅲ部 近代における神社境内の変遷と神社行政

 第10章 神田神社境内の変遷と神田祭――祭祀・祭礼空間の持続と変容(岸川雅範)

 第11章 明治初年の東京と霧島神宮遥拝所(松山 恵)

 第12章 近代神戸の都市開発と湊川神社――一九〇一年境内建物立ち退き問題から(吉原大志)

 第13章 法令から見た境内地の公共性――近代神社境内における神社林の変遷と公園的性格(河村忠伸)

 第14章 近代神社行政の展開と明治神宮の造営――神社関係内務官僚の思想と系譜から(藤本頼生)

 第15章 近代神社の空間整備と都市計画の系譜――地域開発・観光振興との関わりから(永瀬節治)

 

第Ⅳ部 基礎的史料としての近代神社関係公文書

 第16章 基礎史料としての東京府神社明細帳――「東京府神社関係文書」目録解題(北浦康孝)

 第17章 山野路傍の神々の行方――「阿蘇郡調洩社堂最寄社堂合併調」一覧解題(柏木亨介)

 

あとがき(藤田大誠)

索引

執筆者略歴

 あとがきに「この学際的論文集が世に出ることにより、今後とも多様な人々が集う研究アリーナ(討議場)で、議論が深められることを心より願い」と述べるように、胸襟を開いて共同研究にあたる環境づくりに努力を重ねてきた編者の誠意が、本書の大きな原動力になったと思われます。そして、明治神宮国際神道文化研究所の出版助成などの心配りが、本書を実現させる暖かい支援になったと拝察されます。

 すべて拝読しないうちに、500頁を超える大著についてコメントするのは無礼と思いつつ、手にとって一部に目を通して、ひとつ感じたことがあります。

 それは、平成32年(2020)に鎮座百年を迎えようとしている明治神宮の教学研究の歩みです。日本を代表する神社とはいえ大正時代に創建した歴史の浅い明治神宮において、「叢書」を編むことの重要性を明治神宮役職員にご教示され、試行錯誤の中で献身的に、同じ神職の心境で、編纂事業に尽瘁されたのは、今年3月に國學院大學教授を退かれる中西正幸先生でした。平成12年より18年まで刊行に7か年、構想からはさらに多くの歳月を費やした、鎮座80年を記念する『明治神宮叢書』全20巻の編纂・刊行事業が、本書に収められた研究成果に果たした貢献は少なくないように思われます。 

明治神宮以前・以後: 近代神社をめぐる環境形成の構造転換

明治神宮以前・以後: 近代神社をめぐる環境形成の構造転換