W. G. アストン『神道』について(9)
第四章「総論――神の職分〔functions〕」では、神道の神への祈りについて次のように観察しています。
自然神は其の固有の自然の職分にのみ拘はつてをることが稀である。神道では神が人間を保護する傾向がますます生じて来ることを示してをる。古神道の中にさへ、神が其の神特有の義務の外に人間を加護したことの実例が沢山にある。日の女神は世界に光を与ふるのみならず、其の神が愛する人間のために五穀の種を供給し、特に子孫なる天皇の幸福を守つてゐる。風雨に人格を附けてこしらへた須佐之男之命は有用なる種々の材木の供給者である。事実上すべての神が豊年のために雨のために祈られた。人間神の天満宮にさへも亦之を祈つた。どの神も地震を起し、疫病をはやらせることが出来る。(『日本神道論』、八七頁)
神道の如き性質を有する自然崇拝は多神教なることは止むを得ない。太陽の如き只一つの自然神を崇拝することは之を思考することが出来る。但し、自然物又は自然の現象を、人間に擬するところの創造力は実際決してそればかりで活動がやむものではない。生命を有つた万物は蓋し一神教的自然神である。但し、此の思想には古代日本人が有つてをつたよりも大きな科学的知識の分量が必要である。彼等は只不充分なきれぎれな、きれいな幻影の光を持つてをるばかりである。(八八頁)
と多神教的信仰を説明し、「「最上神に於ける信仰は避け難いものである」と言つたマックス・ミュラーの説は神道の事実には当てはまらないのである。」(九二頁)と述べています。章の結びでも神道では「無限無窮といふ語は……無限の時間をいふ」のであって、「天皇の子孫の無窮であるといふこと」「永久の夜(トコヤミ)といふこと」は聞くが、ミュラーの「無限のものを了解する才能が無ければそこに宗教があり得ぬ」という、「超越的なること、即ち人智人力の超越してをること」を宗教の定義とする説は当てはまらないと批判しています。