阪本是丸先生より、『鎮守の杜ブックレット2 神葬祭 その歴史を探る』(神社新報社、平成29年)をご恵与いただきました。誠に有難うございました。
阪本先生の提案により、平成元年(1989)、昭和天皇の御大喪諸祭を顧み、神葬祭の歴史的経緯と神道の霊魂観を探るため、各分野の先生方の執筆により神社新報紙上に連載された原稿をもとに再構成された1冊です。
目次は次の通りです。
はじめに
- 覗かれる未消化の異国文化―古代の墓制―(椙山林継)
- 日本固有の葬法―仏教伝来で葬法に変化―(斎藤忠)
- 平安時代以後の葬法―追善供養の仏教教学が波及―(神社新報社編輯部)
- 神道葬祭の成立―その淵源について―(岡田莊司)
- 檀家制度の成立―江戸幕府の宗教政策―(圭室文雄)
- 吉田流葬祭の発展(岡田莊司)
- 近世の墓地と墓石―工夫みられる神道の墓―(神社新報社編輯部)
- 神道宗門と神葬祭運動(椙山林継)
- 水戸藩の葬礼―神葬実行の苦辛―(近藤敬吾)
- 離檀運動支へたもの―国学者の死後観―(安蘇谷正彦)
- 幕末の離檀運動―浜田・津和野の離檀運動めぐって―(加藤隆久)
- 明治維新と神葬祭―近代の神葬祭と墓地制度―(神社新報社編輯部)
- 近代神葬祭の光と影(阪本是丸)
- 地域社会と神葬祭の受容―儀式を司ったのは誰か―(櫻井治男)
編集後記(神社新報社調査室)
前方後円墳は最も日本的な特徴を示す古代の墓制であり(覗かれる未消化の異国文化)、仏教伝来以降も固有の葬法が伝承され(日本固有の葬法)、古来の野辺送りの葬法が庶民のなかで主流をなしました(平安時代以後の葬法)。
応仁の乱以降、吉田神道を大成した卜部兼倶は「人は則ち神の主なり」として人間は死後神になると主張しましたが(神道葬祭の成立)、江戸時代には全国民が寺の住職からキリシタンではないことを保証する寺請証文の提出が義務づけられ、日本人すべてが仏教徒とさせられました(檀家制度の成立)。こうしたなか歿後の祓清めをはじめ諸儀ごとに中臣祓などを唱える吉田流神葬祭が、吉田家配下の神職自身のみに認められ(吉田流葬祭の発展)、当時の墓石銘の調査により神道葬成立の時期が解明されることが期待されます(近世の墓地と墓石)。水戸藩では徳川義公光圀の意志による独自の神葬式が行われ(水戸の葬礼)、宝暦(1751~1764)以降には土浦藩や伊予国越智郡、石見国浜田藩、津和野藩、尾張藩などの神職による神葬祭運動や離檀運動が行われました(神道宗門と神葬祭運動)。そうした運動を支えたのは、死後の霊魂はこの世に留まり、この世の生成発展を守護することを説いた、本居宣長・平田篤胤・岡熊臣ら国学者の死後観・霊魂観でした(離檀運動支へたもの)。もっとも弘化4年(1847)に津和野藩神職の離檀・神葬祭が許可された際にも「当人嫡子隠居」に限ると口上書にあるように、神葬祭問題の解決は明治維新をまたねばなりませんでした(幕末の離檀運動)。
明治元年(1868)に政府は津和野藩の神葬祭などの宗教政策をもとに神職とその家族が神葬祭に改めることを許可し、明治3年に神葬祭用の東京・青山墓地が誕生、明治5年には教部省官員の小中村清矩・猿渡容盛が主務となり草稿した、教導職東西部管長千家尊福・近衛忠房『葬祭略式』が刊行するなど、近代の神葬祭が普及する基盤が整えられました(明治維新と神葬祭)。しかし神葬祭の執行と信仰をめぐる多様な問題(神官と教派神道との競合関係、神社の宗教性を払拭しようとする内務省の姿勢、伊勢神宮派と出雲大社派との教学論争など)により、内務省は明治15年(1882)に官社神官に教導職分離・葬儀不関与を達し、敗戦に至るまで神葬祭に影が覆い続けました(近代神葬祭の光と影)。その当時の希有な事例として、三重県伊勢周辺では、大教宣布運動に伴う神官の教化活動と関連し、祖霊殿(社)や神葬祭の普及に地域社会全体で取り組みました。今後、さらに多くの地域社会の実状をふまえて、神葬祭の問題が検討されることが大切といえます(地域社会と神葬祭の受容)。
本書は地方から都市に流入した世代を中心に神葬祭の希望が増加しつつある現状をふまえて企画され、地縁意識の希薄化や新しい霊園の造成、費用負担が少ないことなどを背景に、今後も広がりを見せる可能性があると指摘しています(編集後記)。人口減少の危惧される地方においても、神葬祭への関心は以前より高くなっており、その歴史や意義について理解を深める上で、有意義な1冊と思われます。