大島英介氏(1917~2007)の遺稿である『遂げずばやまじ――日本の近代化に尽くした大槻三賢人』(岩手日報社、平成20年)を、資料の整理中に久しぶりに手にしました。この書物は平成18年1月9日より翌年12月31日まで、『岩手日報』紙上に103回連載した「日本近代化に尽くした大槻三賢人――玄沢・磐渓・文彦」をまとめたものです。日本で初めて近代的な国語辞書の内容を備えた『言海』の編纂者である大槻文彦を中心に、父磐渓、祖父玄沢ら大槻家の人々を歴史的に記述しています(大島晃一「あとがき」)。
本書の中で、大槻文彦が明治31年(1898)10月の一関尋常中学校校舎落成・開校式にあたり、ふるさとの教育振興を願って書いた「賀章」のことが紹介されています(319~328頁)。
この「賀章」の大半で、「彼の藤原三衡の盛なりしが如きは姑(しばら)く措く。」として、以下のような岩手県南地域の歴史人物を紹介し、生徒たちを励ましています。
謙徳公(一関藩主第八代田村邦行、幕末に藩政を作新)
建部清庵(一関藩医、『民間備荒録』を著して飢饉からの救済に尽力)
大槻玄沢(『蘭学階梯』を著し幕府洋書翻訳局「蛮書和解御用」を開く)
佐々木中沢(仙台医学校で蘭方医学を指導)
関良作(儒学者、一関藩の一千余人の門人を躬行実践に引率)
千葉雄七(名は胤秀、花泉の和算家、『算法新書』を著し門人を教育)
阿部随波(通称小平治、鉱山経営者、河道改修・殖産に活躍)
大槻丈作(五串村に天狗橋を架し、赤子養育法を施行)
大槻民治(独力で仙台藩府学養賢堂を建設し学頭となり学問を興す)
影田良作(号は蘭山、仙台藩儒学者、養賢堂指南役として教育振興)
小野寺元適(玄週、のち丹元、仙台藩医学館学頭で魯西亜学の開祖)
柏原清左衛門(平泉出身、私財を棄て五串村に良田を開拓)
相原三益(気仙郡高田生まれ、平泉史研究家、赤荻で平泉三部書を著す)
芦東山(名は徳林、渋民出身、仙台藩儒学者、『無刑録』著す)
青柳文蔵(松川出身、仙台に青柳文庫の図書館、郷里に備荒倉を建てる)
高野長英(水沢出身、蘭学、医術を究め日本初の洋兵書を著す)
箕作省吾(水沢出身、蘭学に精通し万国地誌「坤輿図識」を記述)
箕作麟祥(明治の法学者、民法商法を起草して政府に尽くす)
志村五城・東蔵・篤治の兄弟三人(江刺郡羽黒堂出身、仙台藩儒)
金忠輔(石越出身、カムチャッカより渡米、カリフォルニア酋長となる)
大槻文彦は「賀章」の結びに、「先(ま)ず呈するに、頌(しょう)を以てして、并(あわ)せて呈するに規(き)を以てす」と記しています。大島氏はこれを、在野の「処士」の立場で述べた格調高い文章であり、校舎落成と開校式の単なる祝辞ではなく、ふるさとの後輩たちへの戒の言葉であったと解説しています。
この長文の「賀章」は、ブログ筆者が一関第一高等学校在学中の昭和50年代末から60年代には、校舎の1階に掲示されていたように記憶しています。しかしそれに注意をはらうこともせずに当時を過ごしました。
いま改めて内容の一端を知り、大槻文彦が郷土の若者に、先人を凌駕するような人材となるようにとの強い期待と激励をこめていたことに感銘します。そして、私たちが地域づくりや人づくりに取り組む上で、こうした「科学(サイエンス)」を重んじた郷土の先人たちについて、温故知新の精神で理解を深め、私たちのアイデンティティを再確認することが大切ではないかと思います。