新渡戸稲造「三本木村興立の話」(柳田國男編『郷土会記録』)

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 去る7月26日(日)、岩手県立大学アイーナキャンパスでの岩手民俗の会・平成27年度第1回研究発表会において、「近代日本学者の神道論――その系譜的一考察」と題して、B・H・チェンバレンやW・G・アストン、新渡戸稲造、加藤玄智の神道論について報告しました。

 発表後、会員の吉田満さんから、新渡戸傳・十次郎の三本木原開拓について質問があり、新渡戸稲造自身が東京・小日向台町の自邸を会場に、柳田國男・小田内通敏が幹事となって明治末から大正時代に開催された郷土会の第18回例会(大正2年6月4日)で、三本木の開墾について講演していることを紹介しました。

 吉田さんはこのことに以前から関心を寄せられ、関連する資料のコピーを後日お送り下さいました。小生もちょうど柳田國男編『郷土会記録』(大岡山書店、大正14年)所収の新渡戸稲造「三本木村興立の話」を読み直そうとしていた時でしたので、架蔵本のその部分をコピーして、吉田さんにお送りしました。

 これを機会に、新渡戸家の開墾事業について、小生なりに勉強してみたいと思っています。

 そこで、その最初として、新渡戸稲造の「三本木村興立の話」を翻刻ワープロ入力)してみました。

 この講演録には、三本木開墾に尽くした新渡戸傳・十次郎父子の事績と、三本木(現十和田市)の発展を願う新渡戸稲造の思いがこめられているように思われます。

 ここに参考まで、そのPDFデータを添付いたします。

 

 翻刻 新渡戸稲造「三本木村興立の話」(PDFファイル) 

 

 

世界の中の神道 (錦正社叢書)

世界の中の神道 (錦正社叢書)

 

 

明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎――新国立競技場改築計画に寄せて

 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」であり、日本初、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に大正13年(1924)3月に建設されました。陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。敗戦から数年後、日本は「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出し、そのための国際的なアピールとして、昭和33年(1958)、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが国立競技場であり、建設は神宮競技場の取り壊しから始まり、着工は昭和32年(1957)1月、大会を2か月後に控えた昭和33年(1958)3月に完成しました。(以上、国立競技場ホームページより)

 以下では、国立競技場の前身である「明治神宮競技場」に関連する研究発表の要旨(佐藤一伯「明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎」、第59回神道宗教学会学術大会、平成17年12月4日)を掲載し、昨今の新国立競技場改築計画について考える参考に供したいと思います。
 この報告は、阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863~1941、明治神宮奉賛会副会長兼理事長)の『明治神宮奉賛会日記』(明治神宮所蔵、『明治神宮叢書』第17巻に翻刻)などを手がかりに、明治神宮内外苑の造成経緯(とくに後者)について、聖徳記念絵画館と競技場(現国立競技場)などの体育施設を比較しながら検討したものです。なお、より詳しい記述が、拙著(佐藤一伯『明治聖徳論の研究――明治神宮の神学』国書刊行会、平成22年、第8章「明治神宮内外苑の創建と阪谷芳郎」、257~294頁)に収録されています。

 外苑の形成―「聖徳記念」の中心と周縁-

 明治神宮外苑は民間団体の明治神宮奉賛会が、国民の献金を集めて、明治の「聖徳記念」ために造成したものであり、その中心は葬場殿址の前方に建造された聖徳記念絵画館でした。絵画館は明治天皇崩御直後に有識者の提言から生れたものです。神社に参拝して「「ありがたさに涙こぼれ」て、唯何となく勿体なく思ふ」という「抽象的の概念」だけでは「まだ物足らぬ」から、「御偉業を景仰」する「具体的策励」として記念館を建て、「何時までも含蓄に富める教訓を得」られるようにしたい(幣原坦談)という、絵画や銅像による西洋的・可視的な施設を望む意見が少なくありませんでした。

 他方、造営計画が進む中で、絵画館とともに「外苑の双璧」と並び称されるにいたったのが競技場でした。体育施設の建設は、乗馬で身心練磨に励まれた明治天皇の「叡慮」に沿うものとして受け止められました。内務省は竣工にあわせて体育大会(第1回明治神宮競技大会、大正13年10月30日~11月3日)の開催を計画しました。この大会は瞬く間に国内スポーツ競技の最高殿堂として定着します。以後、各運動競技団体からの新施設建設の陳情・請願が相次いだため、明治神宮奉賛会は計画の一部を変更し、野球場・相撲場・水泳場等の設置を決定するに至りました。

 第12回オリンピック東京大会への対応

 昭和12年6月23日、第12回オリンピツク東京大会組織委員会は内務省に「明治神宮外苑競技場改造願」を提出しました。競技場を第11回ベルリン大会の主会場に匹敵する「観覧者約十万人ヲ収容シ得ル如ク主トシテ西方ニ拡張」し、水泳場についても「大改造ヲ行ヒ観覧者約二万五千人ヲ収容シ得ル如ク」するというものでした。児玉九一神社局長は7月16日、徳川家達組織委員会長宛に、①拡張に要する経費は明治神宮に奉納すること、②経費は国庫補助金・市補助金より支出すること、③拡張するスタンドは仮設構造とし大会終了後撤去すること、④工事の設計施工は外苑管理署もしくは内務省が行うこと等を遵守することを条件に承認する見込みであると回答しました。しかし組織委員会は昭和13年4月、「主競技場ヲ駒沢ニ建設スルコトニ決定」しました。外苑が国民の浄財によって造成が完成したばかりで直ちに改造することは好ましくなく、改造計画案も外苑の風致を害するとして反対する向きがあること、東京市会の要求する10万人以上を収容する競技場は国家の威信・国民の熱意に鑑み当然の要望だが、外苑競技場改造に莫大な費用を投じても結果的には現状維持程度の収容力しか望めず、この際水泳競技場と一緒に駒沢に新設すべきだ、などの理由によるものでした。阪谷は「折角出来タルモノヲオリンピツクノ為ニ改造トナルコトヲ深ク残念ニ思ヒ」、外苑改造に反対の意向であったようです。昭和12年4月7日、児玉神社局長が阪谷に面会して「オリンピツクノ為競技場改造ハ頗ル心配」と相談した際「余モ同感」と語り、「着手前評議員会ニ付スルコト」を依頼し、かつ「断然断ハルモ可ナリ」と助言していることなどから、「外苑の風致」を理由に改造を懸念する勢力の有力者であったと思われます。

 阪谷芳郎明治神宮

 阪谷の日記をひもとくと、晩年まで明治神宮=「国体無言ノ教育」の場という持論を後継の人々に説き続けていたことが窺えます。彼の言動の中から、内外苑の「風致」は「明治聖徳」(雄大・質実・仁慈…)と「国体無言ノ教育」の重要な表象・生命であり、これを蔑ろにして「御聖徳ヲ憧仰」する道は虚偽である、という考えが浮かび上がってきます。
 こうした明治神宮論は、父・阪谷朗廬の思想との交流を度外視して語ることは出来ないと思われます。阪谷は父の教育界への功績について第一に「白鹿洞掲示説」を著して「日本人ハ忠孝ト云フコトヲ土台トシテ行カネバナラヌ」と主張したことで、「教育勅語」は朱子の「白鹿洞掲示ノ生レ代リタルモノトモ見ラレル」と述べています。第二に、「兵式体操」を奨励したこと、第三に教育普及のために「仮名混リ文ヲ主張シタ」ことを挙げています。特に『明治神宮奉賛会日記』の冒頭に「忠孝吾家之宝」と記しており、「忠孝」の道を父から受け継いだという自覚は大きかったと思われます。衰退が懸念される伝統文化へのまなざしと、時勢相応の解りやすい教育を配慮するバランス感覚は、阪谷芳郎の「国体無言ノ教育」の場としての明治神宮論にも受け継がれた面があったと思われます。

明治聖徳論の研究―明治神宮の神学

明治聖徳論の研究―明治神宮の神学

 

 

岩手民俗の会 平成27年度第1回研究発表会のお知らせ

 岩手民俗の会の平成27年度第1回研究発表会が、下記の通り開催されます。

 ご興味のある方は無料で参加できますのでお知らせ致します。

  1. 日時 平成27年7月26日(日)13時30分より
  2. 場所 岩手県立大学アイーナキャンパス学習室1 (盛岡市盛岡駅西通1-7-1 いわて県民情報交流センター(アイーナ)7階)
  3. 研究発表
  • 近代日本学者の神道論(佐藤一伯)
  • 北上地方における年中行事の変化と伝承――年中行事から見える生活の変化(小田嶋恭二)

 研究発表後、総会が行われます。

 佐藤発表では、拙著『世界の中の神道』(錦正社、平成26年)の内容をもとに、ウィリアム・ジョージ・アストンや新渡戸稲造、加藤玄智の神道論を紹介する予定です。

世界の中の神道 (錦正社叢書)

世界の中の神道 (錦正社叢書)

 

 

十和田市立新渡戸記念館の存続を

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 報道(新渡戸記念館廃止解体へ、読売新聞ホームページ、6月6日)に拠ると、青森県十和田市の開拓の歴史を伝える資料約8千点を展示していた「市立新渡戸記念館」が、建物の耐震強度不足を理由に4月から休館している問題につき、小山田久市長は6月5日の定例記者会見で、記念館を廃止し、建物を解体すると発表しました。耐震診断結果に沿って廃館の方針で、記念館の廃止条例案と解体費用約2900万円を盛り込んだ補正予算案を12日開会の市議会定例会に提出、条例案が通れば6月末に廃館とし、今年度中に解体することになるとのことです。

 これに対して、保有資料を記念館で保管している新渡戸家側は「耐震性に問題はない」と廃館に反対しており、市を相手取って提訴することを検討しているとのことです。
 別の記事(新渡戸記念館解体契約「待って」、読売新聞ホームページ、6月12日)では、同館学芸員が11日に、市が建物の解体を決めた場合に解体工事契約などの締結防止を求める住民監査請求書を、市の監査委員事務局に提出。記念館は「十分な耐震性を持つ建物と推測される」「耐震性を確認して今後の措置を検討するのが本当の姿」などと主張し、解体工事契約の締結防止などを求めています。

 この問題を漏れ拝聴し、新渡戸稲造を尊敬し、その日本文化論や神道論について調査してきた小生は、たいへん驚き、新渡戸家資料の保存はもちろんのこと、現施設の保存維持に努めていただきたいと願ってやみません。記念館関係者はもちろん十和田市民また国内外の多くの方々が今回の事件に嘆き悲しみ、心を痛めているに相違ありません。
 新渡戸稲造は生涯に、日本人の感受性、生来の内なる善神の尊重、祖先崇拝などの素晴らしさについて、『武士道』などを通じて国内外に語り続けました。その背景には、旧南部藩士新渡戸家の神祇を尊ぶ環境や、明治天皇が明治9年・14年の東北巡幸にあたり祖父・新渡戸傳の三本木原開拓の遺業を嘉賞され、それが農学志向への転機となったことなどが挙げられます(以下、拙著『世界の中の神道』)。
 祖父新渡戸傳は明治4年に歿し、生前より墓域と定めていた旧南部領三本木(現青森県十和田市、市立新渡戸記念館敷地)の太素塚に神道式で葬られましたが、稲造は度々の外遊前後に墓参しました。カナダで客死する5カ月前の昭和8年5月には、昭和天皇への3度の進講の名誉に浴したことを太素塚の神域に奉告し、「もし他地で死亡の時は祖父傳翁のそばへ埋葬して呉れ」と言って持参のステッキで丸を画いたといいます(川合勇太郎『太素新渡戸傳翁』、新渡戸憲之『三本木原開拓誌考』など)。
 明治天皇の巡幸を契機とした農学への精励については、『農業本論』の「自序」に、「祖父の意思を継ぎ、皇恩の隆渥なるに報ひんとて、……余も亦始めて一身を農事に委せんとす」と述べ、その宿志を徳富蘇峰が『国民新聞』紙上で称賛しています(「農業本論を読む」)。明治38年4月12日にはメリー夫人とともに、明治天皇に拝謁して英文『武士道』を献上し、その際「稲造短才薄識、加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は 聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い奉らんことを」という「上英文武士道論書」を草しました(桜井鴎村訳『武士道』)。『農業本論』で「『地方学(ぢかたがく)』(Ruriology, Ruris 田舎、 Logos 学問)」すなわち地方の事象の顕微鏡的観察を提唱したのも、「回顧すれば明治維新、国是一変して、粋を英仏に汲み、華を米独に咀み、従来の制度を種々刷新して、或は村落の分合を行ひ、自治制を布けるが如き、因つて以て従来の田舎社会を全然壊敗し了らしめ、我が地方学の研究に一大錯雑を来すに至りぬ」との憂慮を抱いてのことでした(『農業本論』)。新渡戸の地方学の構想は明治43年より大正6年まで、小日向台町の自邸を会場に柳田国男・小田内通敏が幹事となって催された郷土会に受け継がれ、さらには柳田の民俗学、小田内の郷土地理学、小野武夫の農村経済史研究、牧口常三郎創価教育学へと発展しました(岡谷公二柳田国男の青春』)。
 こうした新渡戸稲造の足跡は、新渡戸稲造個人や新渡戸家、十和田市民などの血縁、地縁にとどまらず、小生のような東北人、また広く日本人、さらには日本文化に理解の深い世界の人々の心に生き続けており、新渡戸記念館が太素塚と同じ場所にあって資料保存や研究教育の拠点として活動してきたことに、大きな文化的意義があると思われます。すなわち、これまでの新渡戸記念館を中心とする文化的活動は、国内外の人々にとって偉大な財産であり、記念館の立地や施設そのものが歴史的文化的に高い価値を有していると考えられます。
 よって、今回の施設の廃館や解体という十和田市の方針は、これまで述べた歴史文化、ひいては観光資源を喪失してしまう大変残念な内容であり、一日本人として、東北人として受け入れられるものではありません。
 十和田市及び十和田市議会におかれましては、新渡戸記念館の保存維持の対策を再度ご検討下さいますよう衷心よりお願い申し上げます。

   平成27年6月13日

                     御嶽山御嶽神明社 宮司 佐藤一伯 

 

(写真は、十和田市立新渡戸記念館の入口、平成23年10月8日撮影。新渡戸稲造、父十次郎、祖父傳の墓地「太素塚」が隣接しています。)

 

追記 新渡戸記念館は有名な建築家・生田勉先生の作品の1つであり、収蔵資料、記念館施設、さらには景観いずれも貴重な文化遺産ではないかと思われますので、ぜひ大切にしていただきたいです。(平成27年6月14日)

 

追記 新渡戸記念館を6月末で廃止する条例案や解体事業費を盛り込んだ補正予算案が26日、十和田市議会6月定例会で可決されました。議会に声が届かず誠に残念ですが、国民の草の根運動として、廃館および建物取り壊しの撤回を求める署名活動に、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。(平成27年6月29日)

(署名用紙は以下の御嶽神明社ホームページからご利用下さい ※平成28年3月1日よりアドレス変更)

ontakesan.amebaownd.com

 

追記 8月5日より、新渡戸記念館をまもる会(save the towada)のインターネット署名Change Org が始まりました(http://chn.ge/1ORPthR)。

「未来の世代に遺したい日本の精神。新渡戸記念館を廃館・取り壊しにしないで!」 皆様、ご署名宜しくお願いいたします。(平成27年8月6日)

www.change.org

世界の中の神道 (錦正社叢書)

世界の中の神道 (錦正社叢書)

 

 

大島英介『遂げずばやまじ』が紹介する「一関尋常中学校落成式賀章」

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 大島英介氏(1917~2007)の遺稿である『遂げずばやまじ――日本の近代化に尽くした大槻三賢人』(岩手日報社、平成20年)を、資料の整理中に久しぶりに手にしました。この書物は平成18年1月9日より翌年12月31日まで、『岩手日報』紙上に103回連載した「日本近代化に尽くした大槻三賢人――玄沢・磐渓・文彦」をまとめたものです。日本で初めて近代的な国語辞書の内容を備えた『言海』の編纂者である大槻文彦を中心に、父磐渓、祖父玄沢ら大槻家の人々を歴史的に記述しています(大島晃一「あとがき」)。

 本書の中で、大槻文彦が明治31年(1898)10月の一関尋常中学校校舎落成・開校式にあたり、ふるさとの教育振興を願って書いた「賀章」のことが紹介されています(319~328頁)。

 この「賀章」の大半で、「彼の藤原三衡の盛なりしが如きは姑(しばら)く措く。」として、以下のような岩手県南地域の歴史人物を紹介し、生徒たちを励ましています。

謙徳公(一関藩主第八代田村邦行、幕末に藩政を作新)

建部清庵(一関藩医、『民間備荒録』を著して飢饉からの救済に尽力)

大槻玄沢(『蘭学階梯』を著し幕府洋書翻訳局「蛮書和解御用」を開く)

佐々木中沢(仙台医学校で蘭方医学を指導)

関良作(儒学者、一関藩の一千余人の門人を躬行実践に引率)

千葉雄七(名は胤秀、花泉和算家、『算法新書』を著し門人を教育)

阿部随波(通称小平治、鉱山経営者、河道改修・殖産に活躍)

大槻丈作(五串村に天狗橋を架し、赤子養育法を施行)

大槻民治(独力で仙台藩府学養賢堂を建設し学頭となり学問を興す)

影田良作(号は蘭山、仙台藩儒学者、養賢堂指南役として教育振興)

小野寺元適(玄週、のち丹元、仙台藩医学館学頭で魯西亜学の開祖)

柏原清左衛門(平泉出身、私財を棄て五串村に良田を開拓)

相原三益(気仙郡高田生まれ、平泉史研究家、赤荻で平泉三部書を著す)

芦東山(名は徳林、渋民出身、仙台藩儒学者、『無刑録』著す)

青柳文蔵(松川出身、仙台に青柳文庫の図書館、郷里に備荒倉を建てる)

高野長英(水沢出身、蘭学、医術を究め日本初の洋兵書を著す)

箕作省吾(水沢出身、蘭学に精通し万国地誌「坤輿図識」を記述)

箕作麟祥(明治の法学者、民法商法を起草して政府に尽くす)

志村五城・東蔵・篤治の兄弟三人(江刺郡羽黒堂出身、仙台藩儒)

金忠輔(石越出身、カムチャッカより渡米、カリフォルニア酋長となる)

 大槻文彦は「賀章」の結びに、「先(ま)ず呈するに、頌(しょう)を以てして、并(あわ)せて呈するに規(き)を以てす」と記しています。大島氏はこれを、在野の「処士」の立場で述べた格調高い文章であり、校舎落成と開校式の単なる祝辞ではなく、ふるさとの後輩たちへの戒の言葉であったと解説しています。

 この長文の「賀章」は、ブログ筆者が一関第一高等学校在学中の昭和50年代末から60年代には、校舎の1階に掲示されていたように記憶しています。しかしそれに注意をはらうこともせずに当時を過ごしました。

 いま改めて内容の一端を知り、大槻文彦が郷土の若者に、先人を凌駕するような人材となるようにとの強い期待と激励をこめていたことに感銘します。そして、私たちが地域づくりや人づくりに取り組む上で、こうした「科学(サイエンス)」を重んじた郷土の先人たちについて、温故知新の精神で理解を深め、私たちのアイデンティティを再確認することが大切ではないかと思います。

島薗進「天皇崇敬・慈恵・聖徳――明治後期の「救済」の実践と言説」

 島薗進先生より、玉稿「天皇崇敬・慈恵・聖徳――明治後期の「救済」の実践と言説」(36~47頁)が掲載となりました、歴史学研究会編『歴史学研究』第932号(特集「救済」をめぐる言説と実践――歴史の現場から考える(Ⅰ)、青木書店、2015年6月15日発行)をご恵与いただきました。誠に有難く感謝申し上げます。

 「はじめに――天皇崇敬と天皇制慈恵主義」、「Ⅰ 「天皇制慈恵主義」とその初期の形態」、「Ⅱ 明治初期から中期にかけて慈恵の言説の変容」、「Ⅲ 済生会と済生勅語とその反響」、「Ⅳ 明治聖徳論との関わり」の各節で構成されています。
 明治時代に「慈恵」の制度と言説がどのように展開し、天皇崇敬が促されたかについて、「聖徳」についての言説との関係にも注目して論じられ、たいへん勉強になります。
 「大震災と原発災害を経験して改めてきずなや社会の連帯が強調される今日において、人間の尊厳を維持すべき個人と社会の関係のあり方を歴史学の立場から改めて考えていく機会としたい」(歴史学研究会編集委員会「特集によせて」)という、編者の意図と照らすことにより、現在にも繋がるテーマであるように拝察されます。

 

歴史学研究 2015年 06 月号 [雑誌]

歴史学研究 2015年 06 月号 [雑誌]

 

 

岩手民俗の会『岩手の民俗』第11号

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 岩手民俗の会『岩手の民俗』第11号(平成27年3月31日)が発行となり、執筆者への送付分を本日受領しました。(追って、会員各位に送付されます)

 目次は次の通りです。

『岩手の民俗』第十一号発行に寄せて(岩手民俗の会代表 大石泰夫)

〔論文〕

消えた漆掻き道具(工藤紘一) 

民俗神道論に関する一考察――一関市・御嶽神明社一升餅の祝い(佐藤一伯)

分布図から読み取れること――青森県の「疫病おくり」と「虫送り」を例に(吉田満

南部流風流山車の伝承活動における課題(板垣裕仁

〔民俗の窓〕

映像と民俗と私(阿部武司)

虎舞の頭(大石泰夫)

花巻市石鳥谷町内の「餓死供養碑」について(大原皓二)

民俗芸能を教育に生かす取り組み――岩手県矢巾町「不動っ子の集い」(中嶋奈津子)

昭和四十二年(一九六七)のチャグチャグ馬コ(宮内貴久)

「とらや」から始める都市民俗研究(八木橋伸浩)

岩手民俗の会会則

彙報

編集後記

  大石代表が序文で述べていますように、昭和54年(1979)に発足した岩手民俗の会は、平成5年(1993)頃より活動が休止状態に入り、本誌の発行は平成4年8月31日に第10号を発行以降止まっていました。岩手県内外の研究者、愛好者、団体からの要望に応えて再スタートしたのが平成21年(2009)10月、そしてこの度、約23年ぶりに第11号が発行となりました。ここまでの運営委員をはじめ会員、とくに大石代表の献身的なご努力に深い謝意を表さずにはいられません。

 平成23年6月3日の記事(2011-06-03 - 日本学ブログ)にありますように、震災後に岩手民俗の会に入会以来、大石先生をはじめ会員の諸先生と交流する機会に恵まれ、また記念すべき再スタートの第11号に拙い文章を掲載していただき、心より感謝申し上げます。

 序文や編集後記に触れられていますように、岩手民俗の会は広く民俗学に興味のある人の会を目指しており、研究者だけではなく、多くの方々に民俗学の面白さを知っていただき、また専門家も未知の民俗の情報に触れ、研究が発展することを願っています。詳しく知りたい方、入会をご希望の方は、岩手民俗の会ホームページ(http://iwate-minzoku.jp/)をご覧下さい。