福島の復興は重荷を背負って遠き道を行くがごとし


 第49回東北地区婦人神職協議会総会並びに研修会が、令和4年6月22日(水)、双葉町産業交流センターで開催され、来賓(岩手県神社庁長代理)として参加しました。

 対面での開催は3年ぶりとのことでした。

 研修は、福島県神社庁長・丹治正博先生の「福島県の復興は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」、伝承館見学、初發神社禰宜の田村貴正先生の「東日本大震災原子力災害の現状」の三つのテーマにわたり、福島県復興祈念公園内の八幡神社(高倉洋尚宮司)への正式参拝も行われました。

 丹治庁長の講演では、東日本大震災物故者慰霊祭での国会議員への陳情、福島県神社界の悲願・合祭殿(ごうさいでん)の建設に向けて、原発と福島・悩ましい風評、皆さんへのお願い(福島の自慢)についてお話いただきました。

 

『上閉伊〔遠野・釜石・大槌〕神社誌』

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 岩手県神社庁上閉伊支部編集・発行『上閉伊 遠野 釜石 大槌 神社誌』(令和三年十二月一日、A四判、一二一頁)をご恵与いただきました。誠に有り難うございます。

 目次は次の通りです。

 多田副支部長は後書きで、東日本大震災から十年の節目に、神社本庁から学芸奨励金の補助をいただいて、発刊するに至った経緯を記しています。

磐井の正月飾り

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「磐井の正月飾り 一関市民俗資料館収蔵品より」(企画・制作 岩手日日新聞社営業局)と題して、テレビ欄に掲載された記事をスクラップしました。
 岩手県一関市内の神社のお飾りを比較する機会は、あまり無かったと思います。
 表情はそれぞれ違いますが、共通点も少なくないようです。
 身近な文化を見つめ直す好企画だと思います。

藤本頼生『東京大神宮ものがたり』

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 藤本頼生様より『東京大神宮物語――大神宮の一四〇年』(錦正社、令和三年、四六判、328頁)をご恵与いただきました。誠に有り難うございます。

 神宮司庁東京皇大神宮遙拝殿として創建され、「東京のお伊勢さま」と親しまれる東京大神宮の歴史を史料や写真をもとにわかりやすく紹介したものです。

 目次(抄)は、「はじめに」、「大神宮の名称・呼称についての解説――本書を読む方のために」、第一編「大神宮創建の経緯をたどる――日比谷時代から飯田橋移転までの大神宮の歴史」、第二編「神前結婚式と礼典・大神宮――神前結婚式の創始と起源・発展をめぐって」、第三編「大神宮あれこれ――大神宮の不思議を探る」、「参考文献・論文一覧」、「あとがき」となっています。

 著者は「はじめに」で、「本書の発刊を通じて一般の人々に大神宮をより親しみのある社として感じてもらえる一つのきっかけになれば」と述べています。

 「神宮大麻・暦の頒布と大神宮」の章など、神宮の崇敬奉賛に関する記述も多く、神社関係者にとって必読すべき一冊といえます。

人の命の大切さ――平田篤胤の「大御宝」論

 江戸時代後期の国学者荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人の一人にあげられる平田篤胤(一七七六~一八四三)の『玉襷(たまたすき)』は、山田孝雄氏によると、「先生がその門弟どもに授けたる毎朝神拝詞記といふものにつきて、その拝詞の注解講釈として成れるもの」です(平田篤胤著・山田孝雄校『玉襷』青葉書房、昭和十九年。山田孝雄「解題」)。平田銕胤が本書の由来を「尋常人にも。惟神なる道の意を。たはやすく誨さむと」したものと述べるように(平田銕胤「玉襷のふみを板に彫れる由よし」)、門人向けの通俗を旨とした書物ですが、「平田学に於ける多方面のあらゆる研究を要約して此の一書に注ぎたるの観あり」、「平田流の神道の実際を知るべき最第一の書たると共に、平田古道学の全貌を概観するにも恰当の書たり」と山田氏は評しています。村岡典嗣氏も「殊に彼の神道の祖先教としての祭祀的樹立も示され、彼の主著の一つである」(村岡典嗣平田篤胤』、生活社、昭和二十一年)と捉えています。

 

 平田篤胤は『玉襷』八之巻において、大年神の名が「穀物」(たなつもの)に由来することについて、本居宣長の説(『古事記伝』)を紹介しています。

 

「さて大年神と申す名の意。師説に。大は例の美称にて。年は田寄(たし)なり。多余(たよ)を切めて登(と)となる。然云ふ故は。まづ登志とは。穀物(たなつもの)のことなり。其は神の御霊もて田に成して、天皇に寄(よさし)奉賜ふ故に云り。(田より寄すと云ふ意にて。穀を登志とは云なり。)祈年祭祝詞に。皇神等能依左志奉牟奥津御年乎。八束穂能伊加志穂爾。皇神等能依左志奉者。云々と有るを以て知べし。……さて穀を一度取収むるを。一年とは云なり。(されば登志と云ふ名は。穀物を本にて。年月の登志は末なり。)かくて此神は。此穀の事に大なる功坐し故に。此御名を負給へるなり。と云れたるが如し。」

 

 その上で、日本における正月の歳徳棚の祭りは「唐土の暦書」にみられるような内容とは異なり、もっぱら穀物の神である「御年の皇神たち」を祭る古来の趣旨となっていることを指摘しています。

 

「是を以て此処正朔を奉ずる限りの人は。貴賎貧富を云ず、誰しの家にも、正月には、其謂ゆる明方に。歳徳棚と云を設けて。注連を引亘しいみ清めて。種々の物を献りて。当年の穀物の生就は更なり。幸福をも祈り白す事なるが。其祭る意ばへは。唐土の暦書とは異にして。専と御年の皇神たちを祭る意なるを思ふに。此はいと古昔より。上件の由緒によりて。戸ごとに。年の始には祭り来にけむを。分ち賜はる暦の。歳徳明方の御教令に従ひ奉り。其をうち混じての祭礼と見えて。実に然も有べき事とこそ思はるれ。……然れば古学せむ人などは。此意ばへを殊に慥かに思ひ定めて。大年神。御年神。若年神を迎へて祭る心を以て。御鏡御酒をも供ふべきなり。」

 

 また、「御年の皇神たち」(大年神、御年神、若年神)が作り教えた農業にいそしむ民・百姓を「おほみたから」というのは、天照大御神が皇孫に賜った「比類なき御宝」であるからだと指摘します。

 

「さて総じて穀物の種の始めは。豊受大神の御身より成出たるを。御年の皇神たちの作り教へ給へる業を農業といひ。土着して其農業に労く農人を。常に民といひ。百姓と云ふ。多美は田持の義と聞え。百姓をおほみたからと云は。師説に大御宝の義なりと言れたり。其は江家次第に。公御財と書たるにて著し。……抑多加羅といふ言の始めは。天照大御神の。皇美麻命に。天下しろし食せと御言依して。八咫鏡と。村雲剣とを。御璽の神宝として賜へる処に見えたるが。此時よりして。天の下を治め給へば。青人草をも。大御神の賜へる物と。愛く思ほす意をもて。大御宝とは申すにや。実も天皇の。また比類なき御宝は。天下の大御民にぞ有ける。」

 

 そして、「大御宝」たるべき人民がその由緒を有りがたく思い、家業に精励し、その道を深くきわめることは、「神世の道に習ふ心」の基本であるといいます。

 

「然れば其大御宝と有らむ人はも。常にその大御宝なる由緒を思ひ。また大御神の。天皇に属奉(つけまつ)り賜へる事本を思ひ。其御治めを辱み奉り。各々某々の家業を好きて。怠らず勤むべきこと勿論なり。其は士たらむ人は。士の業を好き。農たる人を農業を好き。工商また某々に其業を好より。各々その業に上手となるは然る物にて。然しも其道に至深く成なむ事は。神世の道に習ふ心ぞ本なりける。」

 

さらに、「皇朝の古道に因循し奉る学問」とは、

 

「畏けれど。御国体を知るは更なり大御宝の。大御宝たる所以の本を弁へて。神に君に国に忠義なるべく。其本業を勤みつつ。天子公方の尊き辱き御治めを蒙る。御恩頼の万分一をも。知なむ物と務むるにて。謂ゆる善を択びて固く是を執る者なり。」

 

 すなわち古学は、国体と国民の「大御宝」たる所以をわきまえ、神、君、国に忠義を尽くすべく本業に勤しみ、天皇より賜る「御恩頼」の万分の一でも知ろうと務めることで、『中庸』にいうところの善を選択して固く執ることであると述べています。

 

 昨今、身勝手な理由によって人の命をあやめる事件が後を絶ちません。人はみな、神様から授けられた「宝」であるとの伝承を通じて、自分の命はもちろんのこと、他人の命もまた同様に尊いことに、今一度思いを致しましょう。

今泉宜子『明治神宮 内と外から見た百年 鎮守の森を訪れた外国人たち』

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 明治神宮国際神道文化研究所より、同研究所の今泉宜子主任研究員のご著書『明治神宮 内と外から見た百年 鎮守の森を訪れた外国人たち』(平凡社、2021年9月15日発行、新書版、335頁)をご恵与いただきました。誠に有り難うございます。

 これまで明治神宮を訪れた外国人に着目し、内と外の視点から日本と世界の百年史を綴ったもので、目次は次の通りです。

  • はじめに
  • 序章 明治神宮の誕生
  • 第一章 世界が空に夢中だったころ――飛行機乗りたち
  • 第二章 独立運動の志士は祈った――革命家たち
  • 第三章 スポーツの戦後と外苑の行方――占領者たち
  • 第四章 絵画館にみる美術と戦争――続・占領者たち
  • 第五章 祖国への眼差し――日系移民たち
  • 第六章 参拝の向こう側――大統領たち

 著者は「はじめに」で、「空の英雄リンドバーグ、インド独立の志士チャンドラ・ボースGHQの将校から大リーグの名選手まで、それぞれの立場で日本と交わった時代を象徴する外国人が登場する。彼らは明治神宮訪問を目的として来日したわけではない。しかし、参拝の背景をひも解いてみれば、その時々における彼の国と我の国の関係が見えてくる。」と述べています。

 読みやすく面白い内容ながら、行間に細密な調査研究の努力が感じられる比較文化史の歴史書となっています。

奥波一秀「丸山眞男における音楽と啓蒙の問題」

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 奥波一秀様より、論考「丸山眞男における音楽と啓蒙の問題」が掲載された、『図書』2015年1月号(岩波書店)と、六義園の写真などをお贈りいただきました。先日、奥波様より日本学研究会の機関誌『日本学研究』に掲載された論考についてお問い合わせがあり、当該部分の複写をご提供したところ、貴重な内容で参考になる旨のお手紙と共に頂戴したものです。お心遣い誠にありがとうございます。

 論考は「戦中と戦後、二つの《第九》体験」、「田中耕太郎と緑会レコード・コンサート」、「佐々木幸徳と音感合唱教室」、「オルロフ「音楽と階級闘争」とプロレタリア音楽の人脈の謎」、「ヴェーバー音楽社会学の射程」の各節より構成されています。冒頭で、「丸山眞男の西洋古典音楽へのとりくみは、ただの趣味、娯楽どころか、実はその思想と密接に結びついていた。丸山の音楽思想の方向性は、戦中・戦後・被占領期を通じて、①音楽の(大衆への)教育効果、②音楽の歴史的・社会的条件、③西洋音楽の普遍性、といった三つに分節できるように思う。」(18頁)と述べています。