人の命の大切さ――平田篤胤の「大御宝」論

 江戸時代後期の国学者荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人の一人にあげられる平田篤胤(一七七六~一八四三)の『玉襷(たまたすき)』は、山田孝雄氏によると、「先生がその門弟どもに授けたる毎朝神拝詞記といふものにつきて、その拝詞の注解講釈として成れるもの」です(平田篤胤著・山田孝雄校『玉襷』青葉書房、昭和十九年。山田孝雄「解題」)。平田銕胤が本書の由来を「尋常人にも。惟神なる道の意を。たはやすく誨さむと」したものと述べるように(平田銕胤「玉襷のふみを板に彫れる由よし」)、門人向けの通俗を旨とした書物ですが、「平田学に於ける多方面のあらゆる研究を要約して此の一書に注ぎたるの観あり」、「平田流の神道の実際を知るべき最第一の書たると共に、平田古道学の全貌を概観するにも恰当の書たり」と山田氏は評しています。村岡典嗣氏も「殊に彼の神道の祖先教としての祭祀的樹立も示され、彼の主著の一つである」(村岡典嗣平田篤胤』、生活社、昭和二十一年)と捉えています。

 

 平田篤胤は『玉襷』八之巻において、大年神の名が「穀物」(たなつもの)に由来することについて、本居宣長の説(『古事記伝』)を紹介しています。

 

「さて大年神と申す名の意。師説に。大は例の美称にて。年は田寄(たし)なり。多余(たよ)を切めて登(と)となる。然云ふ故は。まづ登志とは。穀物(たなつもの)のことなり。其は神の御霊もて田に成して、天皇に寄(よさし)奉賜ふ故に云り。(田より寄すと云ふ意にて。穀を登志とは云なり。)祈年祭祝詞に。皇神等能依左志奉牟奥津御年乎。八束穂能伊加志穂爾。皇神等能依左志奉者。云々と有るを以て知べし。……さて穀を一度取収むるを。一年とは云なり。(されば登志と云ふ名は。穀物を本にて。年月の登志は末なり。)かくて此神は。此穀の事に大なる功坐し故に。此御名を負給へるなり。と云れたるが如し。」

 

 その上で、日本における正月の歳徳棚の祭りは「唐土の暦書」にみられるような内容とは異なり、もっぱら穀物の神である「御年の皇神たち」を祭る古来の趣旨となっていることを指摘しています。

 

「是を以て此処正朔を奉ずる限りの人は。貴賎貧富を云ず、誰しの家にも、正月には、其謂ゆる明方に。歳徳棚と云を設けて。注連を引亘しいみ清めて。種々の物を献りて。当年の穀物の生就は更なり。幸福をも祈り白す事なるが。其祭る意ばへは。唐土の暦書とは異にして。専と御年の皇神たちを祭る意なるを思ふに。此はいと古昔より。上件の由緒によりて。戸ごとに。年の始には祭り来にけむを。分ち賜はる暦の。歳徳明方の御教令に従ひ奉り。其をうち混じての祭礼と見えて。実に然も有べき事とこそ思はるれ。……然れば古学せむ人などは。此意ばへを殊に慥かに思ひ定めて。大年神。御年神。若年神を迎へて祭る心を以て。御鏡御酒をも供ふべきなり。」

 

 また、「御年の皇神たち」(大年神、御年神、若年神)が作り教えた農業にいそしむ民・百姓を「おほみたから」というのは、天照大御神が皇孫に賜った「比類なき御宝」であるからだと指摘します。

 

「さて総じて穀物の種の始めは。豊受大神の御身より成出たるを。御年の皇神たちの作り教へ給へる業を農業といひ。土着して其農業に労く農人を。常に民といひ。百姓と云ふ。多美は田持の義と聞え。百姓をおほみたからと云は。師説に大御宝の義なりと言れたり。其は江家次第に。公御財と書たるにて著し。……抑多加羅といふ言の始めは。天照大御神の。皇美麻命に。天下しろし食せと御言依して。八咫鏡と。村雲剣とを。御璽の神宝として賜へる処に見えたるが。此時よりして。天の下を治め給へば。青人草をも。大御神の賜へる物と。愛く思ほす意をもて。大御宝とは申すにや。実も天皇の。また比類なき御宝は。天下の大御民にぞ有ける。」

 

 そして、「大御宝」たるべき人民がその由緒を有りがたく思い、家業に精励し、その道を深くきわめることは、「神世の道に習ふ心」の基本であるといいます。

 

「然れば其大御宝と有らむ人はも。常にその大御宝なる由緒を思ひ。また大御神の。天皇に属奉(つけまつ)り賜へる事本を思ひ。其御治めを辱み奉り。各々某々の家業を好きて。怠らず勤むべきこと勿論なり。其は士たらむ人は。士の業を好き。農たる人を農業を好き。工商また某々に其業を好より。各々その業に上手となるは然る物にて。然しも其道に至深く成なむ事は。神世の道に習ふ心ぞ本なりける。」

 

さらに、「皇朝の古道に因循し奉る学問」とは、

 

「畏けれど。御国体を知るは更なり大御宝の。大御宝たる所以の本を弁へて。神に君に国に忠義なるべく。其本業を勤みつつ。天子公方の尊き辱き御治めを蒙る。御恩頼の万分一をも。知なむ物と務むるにて。謂ゆる善を択びて固く是を執る者なり。」

 

 すなわち古学は、国体と国民の「大御宝」たる所以をわきまえ、神、君、国に忠義を尽くすべく本業に勤しみ、天皇より賜る「御恩頼」の万分の一でも知ろうと務めることで、『中庸』にいうところの善を選択して固く執ることであると述べています。

 

 昨今、身勝手な理由によって人の命をあやめる事件が後を絶ちません。人はみな、神様から授けられた「宝」であるとの伝承を通じて、自分の命はもちろんのこと、他人の命もまた同様に尊いことに、今一度思いを致しましょう。