終戦の詔書と花巻 下村海南と髙村光太郎

 令和4年7月5日、岩手県神社庁での会議のとき、花巻の鳥谷崎神社の稲田典之宮司より、髙村光太郎が玉音放送を聴いたのが同社務所であったことをご教示いただきました。

 令和4年7月2日、岩手県立大学アイーナキャンパスで岩手民俗の会研究発表会が開催され、大原皓二氏が「花巻温泉句碑・歌碑めぐり」について報告、その中で終戦詔書草案作成に携わった下村海南の歌碑についても話されました。和歌山出身で朝日新聞常務をつとめていた下村海南(下村宏)は、大正13年(1924)6月18日に来訪し、花巻温泉の名付け親とも伝えられています。

 大原氏は発表の中で、半藤一利著『昭和史』(平凡社、平成16年)が紹介する、昭和20年8月14日の御前会議における、昭和天皇の御言葉(下村情報局総裁がまとめたもの)を紹介されました。

わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、偲びがたきを偲び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これは難しいことであり、また時も長くかかると思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。私も国民とともに努力する。

 昭和天皇の御言葉には、明治天皇の「五箇條の御誓文」の精神が受け継がれていたと拝察されます。