小形利彦『明治前期地方公立医学校の洋学史的研究』

 

 小形利彦様より、『明治前期地方公立医学校の洋学史的研究―公立医学校授業科目の検討―』(霞城出版、2023年、B6判、258頁)をご恵与いただきました。誠にありがとうございます。明治前期に、全国の府県が設置した公立医学校の授業科目を俯瞰的に考察したものです。

 このうち、盛岡医学校については、明治7年(1874)に三越喜左衛門らの寄付金をもとに登米に共立病院が開院し、翌年に一ノ関(磐井県)に移転して本院となり、明治9年に磐井医学校が開設され、磐井県の廃止とともに岩手県に引き継がれたことが紹介されています。

骨寺村荘園遺跡・一関本寺の農村景観と一関・平泉のもち食文化――一関と周辺の熊野信仰(2)

 骨寺村荘園遺跡・一関本寺の農村景観と一関・平泉のもち食文化について、吉田敏弘『絵図と景観が語る骨寺村の歴史――中世の風景が残る村とその魅力』(仙台・本の森、2008年)と、世嬉の一酒造『一関・平泉 おもちのはなし』をもとに考えてみたいと思います、

 中尊寺が所蔵する「中尊寺領 骨寺村絵図」(重要文化財)に描かれた様々な寺社や遺跡は、平成17年(2005)3月に国史跡「骨寺村荘園遺跡」の指定を受け、さらに絵図の舞台となったこの地区のほぼ全域の景観は、絵図の風景を今に伝える貴重なものとして、平成18年(2006)4月に文化庁より重要文化的景観(選定地名称「一関本寺の農村景観」)に選定されました。

 吉田敏弘氏(國學院大學文学部史学科教授)は『絵図と景観が語る骨寺村の歴史』のなかで、

 世界遺産に登録されるということは、世界にその価値が認められることであり、大変名誉なことです。しかし、仮に世界遺産に登録されなかったとしても、骨寺村の魅力が色あせるということではありません。(6頁)

と指摘し、一関市厳美町本寺地区の遺跡や景観の意義を次のように述べています。

 そもそもこの村は、全国でも数少ない「荘園絵図」に描かれた村でした。ほかならぬ重要な史跡の村に、こうした伝統的な農村景観が伝えられている、という好条件は、全国的にも例を見ません。骨寺村の貴重な価値は、荘園絵図と伝統的な農村景観があいまって、日本における伝統的農村の歩みを伺うための、いわば相乗効果を発揮していることによるものです。(6~7頁)

 吉田氏はまた同書のなかで、須川の素晴らしい眺望から、「骨寺の基礎が駒形信仰に根ざしていることを実感することができました」(41頁)と指摘し、中世に熊野修験の一派など、霊山信仰を基礎とする様々な修験勢力が骨寺村に入り込んでいたことを推定しています。

 吉田氏はさらに、本寺の用水路の景観が、荘園絵図以来の伝統を受け継いでいることを次のように指摘しています。

 今なお生きている用水路の景観、これは荘園絵図以来、自然環境と調和して持続的に発展してきた景観と評価できるのです。そして、本寺川の揚場を中心とする用水系統は、本寺川改修に伴う揚場の移動にも関わらず、いまなお継承されています。毎年春には村人総出で水路の清掃と修理が行われますが、こうした伝統的管理システムと景観維持のための労働の存続をも含めて、この村にはいわば伝統的な用水路と景観と文化が、損なわれることなく生きている、と断言できるでしょう。(116頁)

 そして、骨寺において近年、田植えや稲刈りのイベントが開催され、中尊寺への年貢貢納の行事が復活したことを指摘し、「これらのイベントを通じて、多くの都市住民がこの伝統的農地での米作りに参加し、農業の難しさと収穫の喜びを共有してほしい。これこそ、骨寺村の景観保全とその活用の最もオーソドックスな道なのです。」(120~121頁)と述べています。

 世嬉の一酒造発行の冊子『一関・平泉 おもちのはなし』が述べているように、岩手県一関市・平泉町は、伊達藩から伝わったもち食文化が受け継がれている地域であり、季節の行事や人生の節目など、ハレの日にはもちが食べられてきました。また、もちに関する儀礼や言い伝えも多く残されています。この食文化は、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」のひとつに認定され、さらに農林水産省が認定する「食と農の景勝地」にも、全国で初めて選ばれました。

 骨寺村荘園遺跡や一関・本寺の農村景観は、一関地域が受け継いできたもち食文化とともに、一関市内外の人々だけでなく、日本および世界に誇る文化遺産であり、今後もその歴史や意義について理解を深めていきたいと思います。

『私が選ぶ国書刊行会の3冊』

 株式会社国書刊行会様より、『私が選ぶ国書刊行会の3冊――国書刊行会創業50周年記念冊子』(2022年11月1日発行、新書版、135頁)をご恵与いただきました。お心づかい誠にありがとうございました。

 総勢53名の知名の方々が寄稿されたもので、そのなかで、島薗進先生(宗教学者東京大学名誉教授)が、3冊の推薦書のひとつに拙著『明治聖徳論の研究――明治神宮の神学』(2010年)をご紹介下さいました。重ねて感謝申し上げます。紹介文は次のとおりです。

『明治聖徳論の研究』は明治以後の日本人が天皇を深く崇敬するようになったプロセスを、「聖徳論」の歴史を通して分かりやすく示してくれているすぐれた研究書だ。数代前の日本人をもっとよく理解する手がかりが得られるだろう。(72頁)

 『私が選ぶ国書刊行会の3冊』は、2022年11月より2023年3月ごろまで、全国書店で開催が予定されている《国書刊行会創業50周年記念フェア》にて、無料配布される予定とのことです。

www.kokusho.co.jp

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一関と周辺の熊野信仰(1)

熊野権現のお告げ

 令和4年(2022)10月23日(日)、岩手県一関市(いちのせきし)花泉町老松の老松みどりの郷(さと)協議会と宿(しゅく)集落の共催で「おらほのお宝めぐり」が開催されました。地元の義民である千葉惣左エ門供養地蔵尊と、同じく地元の道慶寺・大祥寺の開祖である月泉和尚が坐禅をした坐禅石を、案内人の千葉安男先生とともに訪ねる企画で、来年3月で閉校する老松小学校3年生児童と保護者などが参加しました。当日は都合により、花と泉の公園での開会式しか参加できませんでしたが、配付資料をいただきました。

 坐禅石のいわれによると、道慶の庵に仮住まいしていた月泉和尚の夢の中に熊野権現があらわれ、そのお告げによって大物見山の平たい石の上で坐禅すると、西の方に白い龍が降りたので、その霊地を永住の地と定め、大祥寺の開祖となったそうです。

 熊野権現という神様のお告げによってお寺が開山されたという言い伝えは、とても興味深いと思いました。

 ちょうどこの日の朝、一関市南町の皆様が管理している熊野神社の例祭を奉仕させていただき、前日の22日(土)には、一関市弥栄の熊野神社例祭をご奉仕しました。

 こうした機会に、一関と周辺の熊野信仰について、少しずつ考えてみたいと思いました。

 

室根神社の本宮と新宮

 ところで、岩手県一関市は、平成30年(2018)に和歌山県田辺市(たなべし)と姉妹都市提携を結んでいます。一関市のホームページによると、昭和58年(1983)に旧室根村と旧本宮町との間で締結した友好都市提携を新市が引き継ぎ、提携35周年を節目に姉妹都市として提携しました。

 一関市室根町に鎮座する室根神社には、本宮と新宮があり、このうち本宮は養老2年(718)、鎮守府将軍大野東人元正天皇の勅命を受け、蝦夷降伏の祈願所として、紀州本宮村の熊野神を勧請したとされています。このような歴史的なゆかりから、昭和58年に旧室根村と旧本宮町が友好都市提携を結び、さらに平成30年には、友好都市提携から35周年、熊野神勧請から1300年を迎える大きな節目に、両市の関係をより深めるため姉妹都市として提携したということです。室根神社特別大祭、田辺市本宮町訪問の旅など、一関市室根友好交流推進協議会が中心となって交流事業を推進しています。

 一関市はさらに、和歌山県新宮市(しんぐうし)と令和3年(2021)に友好都市提携を結びました。 

 室根神社の新宮は正和2年(1313)、和歌山県新宮市にある熊野速玉大社の熊野神の分霊を勧請したとされています。平成30年に挙行された室根神社勧請1300年祭を機に、両市の関係を確認し、この歴史的なつながりを礎として、相互の交流や両市の発展につなげるために友好都市として提携したとのことです。室根神社特別大祭、首長表敬訪問などの交流事業が行われています。

終戦の詔書と花巻 下村海南と髙村光太郎

 令和4年7月5日、岩手県神社庁での会議のとき、花巻の鳥谷崎神社の稲田典之宮司より、髙村光太郎が玉音放送を聴いたのが同社務所であったことをご教示いただきました。

 令和4年7月2日、岩手県立大学アイーナキャンパスで岩手民俗の会研究発表会が開催され、大原皓二氏が「花巻温泉句碑・歌碑めぐり」について報告、その中で終戦詔書草案作成に携わった下村海南の歌碑についても話されました。和歌山出身で朝日新聞常務をつとめていた下村海南(下村宏)は、大正13年(1924)6月18日に来訪し、花巻温泉の名付け親とも伝えられています。

 大原氏は発表の中で、半藤一利著『昭和史』(平凡社、平成16年)が紹介する、昭和20年8月14日の御前会議における、昭和天皇の御言葉(下村情報局総裁がまとめたもの)を紹介されました。

わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、偲びがたきを偲び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これは難しいことであり、また時も長くかかると思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。私も国民とともに努力する。

 昭和天皇の御言葉には、明治天皇の「五箇條の御誓文」の精神が受け継がれていたと拝察されます。

わが里の祈り 高田念仏剣舞

 

 矢巾町の川原博様より、同氏編集・発行の『高田念仏剣舞 「ケンベェ」の奥に ―わが里の祈り―』(令和4年3月31日発行、A4判、33頁)をご恵与いただきました。お心遣いに深く感謝申し上げます。

 本書によると高田念仏剣舞は、浄土欣求や鎮魂供養のため主にお盆に踊られています。庭元には文政元年(1818)の念仏本願回向(巻物)が伝えられています。大笠があることが特徴で、霊の依り代で極楽浄土を表し、四門(発心門、修行門、菩提門、涅槃門)の内部を来世とし、極楽浄土を願う念仏信仰がこめられているといわれています。

 目次は次のようになっています。

  • わが里の祈り 高田念仏剣舞に寄せて(高田念仏剣舞保存会会長(庭元)中村滋
  • はじめに 「ケンベェ」の奥に
  • 巻物が語る背景
  • 念仏本願回向(解読)
  • 口伝を記録復活(讃、剣舞の演目と構成、口拍子)
  • 念仏剣舞の道具
  • 踊りの構成、踊順
  • 連中の構成、装束
  • 復活を願って
  • 連中名簿(明治42年大正8年昭和3年、昭和43年)
  • 足跡
  • 記録写真集
  • あとがき

 著者はあとがきで次のように述べています。

令和2年新型コロナウイルスが猛威をふるい全世界にまん延、パンデミッククラスターという耳慣れない言葉が飛び交いいまだ終息せず、3年間活動(練習含め)がほとんどできない状況となり、この機会に活動記録をまとめたもので編集にあたっては故伊藤博夫氏、安田隼人氏の解読資料により大きく支えられました。

 表紙の写真は昭和46年(1971)の観光まつりの様子です。

コロナ時代の教化を考える

 第38回東北六県神社庁関係者連絡協議会が、令和4年6月28日(火)、郡山ビューホテルで開催されました。

 主題は「コロナ時代の教化を考える」で、人口減少、地域社会の変容に加え、感染症流行により日常が変化する中、神社の教化(教育と感化)と機能のあり方を考えることで、基調講演とパネルディスカッションの二部構成でした。都合により講演のみを拝聴させていただきました。

 基調講演は、「神社の役割・神職の役割―データから読み解く未来像―」と題し、野村證券株式会社金融公共公益法人部法人ソリューション課長の塚嵜智志先生より、昨年6月に実施した寺院・神社に関する生活者の意識調査をもとにお話を賜りました。

 東北地方は、氏神の認識が全国で最も低く、神棚に手を合わせる機会は北陸地方に次いで多いという結果は興味深いものでした。かつて柳田國男が、西日本と東日本とでは氏神観念に違いが見られると指摘していたのを思い出しました。